最近の心境を振り返りつつ、カウンセリングの時伝えたいことも整理していこうかと。
最近のブログ記事を概観してまとめ。
最近のハイライト
- スキーマ療法進捗
- 心境変化
- 『自分のために料理を作る: 自炊からはじまる「ケア」の話』を読んで
- プロセスを味わい、楽しむこと
- 「美味しさの9割は安心感」という言葉からの気づき
- 食事体験の不快感
- 人との関わり方
- ポジはとにかく話を聞いて欲しい
- ネガは否定しないでと縋っている
- 夢ができた
- 時間の使い方について
- ゲームとの円満離婚
- 能力の捉え方が変わった
- その他
- 『自分のために料理を作る: 自炊からはじまる「ケア」の話』を読んで
スキーマ療法進捗
次進めるところはヘルシーな大人といただけないモードの対話のワーク。
しかしそこに入る手前から進んでない。でも、実践できている気がする。
最近、何か心がざわついたり自分の心が傷ついたとき、
「私はなにか悪いことをしたのか?」と自分に問いかけるようになった。
大半の場合至らなさこそあれ悪いことはしていない、という返答をするので、
自分を責めて焦る方向ではなく、解決や改善に向けた切り替えに気持ちが向くようになった。
そして悪いこと、過失や自分に起因する失敗を認める場合、
「健全な大人の自分」がざわついている自分の気持ちと対話する。
自分が何を感じて何を思っているか。どうしたいか。どうしていくか。
というところを、否定せずに聞いてくれるので、落ち着きを取り戻したり、切り替えができる。
この「健全な自分」との対話が、まさに次のワークの内容な気がしている。
元々スキーマ療法というのは2~3年かかるものだということで、
最近あまり急がずにやっている。気持ちに余裕があるとき先に進めたり、
逆にすごく落ちてしまったときは、今までのところを振り返ってワークしなおしたり、
あえて進めてみたりする。
Book1の内容を進めていた頃は、当時の状況から抜け出したくて駆け足だった。
だから今はゆっくり今までのことを実践しつつ自分に馴染ませていく感覚でいいと思う。
心境変化
『自分のために料理を作る: 自炊からはじまる「ケア」の話』を読んで
気になって読み始めた本から多くの気づきを得た。
読書記録:『自分のために料理を作る: 自炊からはじまる「ケア」の話』から得たいろいろな学び
「レシピ」という決まった工程をなぞって正誤で判断されるモノではないということ。
細かい具材や調味料、具材の切り方、盛り付けるお皿。全部自分で選んでいいし、「こうしたい」という意思があると自分の生産活動と感じられて、楽しさや嬉しさを感じると気づいた。
小料理屋形式で一旦自分の空腹を収めてから次の料理を作ってもいい。全部揃っていただきますじゃなくていい。これが自分にはかなり取り入れやすく最近とりあえず春雨ヌードルとか食べてる。料理する気力がないからコンビニ食を選んでいたのが、軽く食べた後に何かしら作ったり、レトルトカレーでもおくらや目玉焼きを足したり、少し手を加えるようになった。そしてなにより、「人が見ていないからとこんな食事しかしないズボラな自分」への嫌悪感がなくなった。
「マニュアルなどで指示されることに対する拒否感」も自炊ができない理由になっているのでは、というのが今まで持っていなかった視点で大きな気づきとなった。
自炊を通して「こうしなければいけない」に気付き、それが他の部分にもあるなという気づきにつながった。
詳しくは読書記録にあるが、完成形が全てではなく、プロセスも楽しむ。私はそれが好き。
料理に「評価」は必要ない。自分が満たされるかどうかで決めていい。
そこから派生して、何かをするのに「仕事につなげないといけない」と思い込んでいたのもほどくことができた。
食事体験の不快感
食事を通した安心感という観点から過去を振り返れた。
中学生の頃の食事はすごく嫌なモノだった。たった今気づいたが、私が家族と外食したくないのも、過去の出来事が少し影響している気もする。家族に対して、同じ空間で過ごす不快感が少しある気がする。
ほかにも母が自分に料理を作るのが負担そうだったこと、孤食がすごく寂しかったこと。
料理でも他のものでも、自分が作ったものは否定されがちだったこと。そういう積み重ねで「正解」を求めるようになった気もすること。
人との関わり方
本を読み始めてからじわじわと自己理解が進んでいる気がしていて。その一つが人との関わり方。
詳細は当時のブログ:ブログと珈琲。、せんせいあのね
ブログを書く時間が好きだ。と感じることが増えた。
思考が多いから、紙でもブログでも外に出すのが効果的なのだと思っていたが多分それだけじゃない。
人と関わる時、私は相手を楽しませるとかより、すごく相手に無意識な要求をしている。
すごく切実に、縋るように、不安そうに、押し付けている部分もある。
嬉しい感情、上手くできたよという時はとにかく聞いて欲しい。
否定せず、ちゃんと聞いて理解して欲しい。でもあまりそうされてこなかったから、
せめて全部、機械的にでも聞いて欲しい。じゃなきゃ不安になっていく。
自分のことを、自分の気持ちを、自分以外が自分の正当性も、感情の存在も認めてくれないのは、少なくとも「子供の自分」にとっては、不安で不安で仕方がなかった。
そしてネガティブなことは、否定しないで欲しくて保険をかけている。お前が悪い、と言われたくない。悪い子として見放されたくもない。すごく歪で、切迫した感情が自分の中にあると気づいた。
味方を変えると、私は本当の意味では誰のことも信頼していない。
そして、自分に対する誤解を解くことも、自分の潔白を証明することも、自分の価値を認めることもしてくれない、自分自身を一番信頼していない。いや、していなかった。
それが少しずつ変わってきている。自分で変化をして、変化を受け入れ始めている。自分への責任を果たす意思を見せている。自分が自分の信頼を取り戻す作業でもある。
夢ができた
スキーマ療法と日々の生活で感情を取り戻しつつあり、
他人軸でない、自分の意思で夢を描くことができるようになってきたと思う。
今はそれが希望の光になっている。
時間の使い方について
詳細は当時のブログ:やらないことを決めること
「時間を浪費する」「タイムイズマネー」とすでに時間の価値を示す言葉はあるが、
自分の人生において時間というものの価値、そこに目を向けるようになった。
夢ができたことで、未来のことを考える気力も湧いてきた。
それがこの意識にも繋がったのかなと思う。
自分の時間は貴重なのだということを、もっと自分自身が理解しないといけないのではないかということだ。
仕事が遅いから残業する。それはひとつ仕方がないことでもあるが、それで自分が家ですべきこと、例えば家事・炊事だったり絵を描くことだったり休息を取ることだったり、趣味で気分転換することだったりの時間を削っていいのだろうか?
だらだらと家事をする。それもまた同じように、仕事の向上のための時間を、そして同じようにまた他のことをする時間をけずっているのだ。
単に残業はしないべきだとか、家のことをだらだらやってはいけないだとか、キビキビ動けとかそういうことではないのだ。自分の今の「時間の使い方」が、自分をある種粗末に扱っているようなものではないのか?ということだ。仕方ないで払っていい犠牲ではないのだ。何かに時間を費やすと言うのは、その限られたリソースを、消極的に消費するということだ。
(中略)
今の仕事をする意味を自分で見出したい。
ここに来た今までと、ここにいる自分を、無駄にはしたくない。
ゲームとの円満離婚
詳細は当時のブログ:さようなら、また会う日まで
この辺は色々繋がってる。先にあった時間の意識もあいまって。
見方によっては依存、自分に悪影響も及ぼしてしまう趣味。とあるゲームとのお別れをした。
時間の使い方の意識が変わったのもあるが、それよりも我ながら着目したいのは、
これが自分からゲームを取り上げる意図ではなくて、
自分と話し合って、もはやゲームと話し合って(?)お別れを選んだ円満離婚であること。
だから、すごく悲しいしやりたいな〜と思うこともあるのだけど、
「まぁでも、お別れしたしな」「あいつと約束したしな」的なメンタルで
青春時代の甘酸っぱい別れ的な記憶となっております。
悲しいし寂しいけれど、お互い前に進んでいかなきゃいけないもんな、と。
だから別にプレイ動画とかは見ます。見れます✌️
こういう形に辿り着いたのは自分で自分を褒めたいポイント。
能力の捉え方が変わった
これも実は、料理の本を読んだことから始まる諸々の変化の一つ。
料理、絵、スイミングなどなど。
「もっとこうしたい!」「これができない!どうすればいいのかな?」
そういうことを考えて試行錯誤すると、できない状態も楽しめる。
私は、自分にはできない、の判断が結構早い。評価を恐れる後天的な性質もあって、能力の分類を自分や人にされることに打たれ弱いと思う。
それがプロセスを味わうことや、自分の感情の動きをキャッチできるようになってきてすこしずつ変わってきたように思う。
能力が「ある」か「ない」か、だったものが、
能力を「もっている」「もっていない」かに変わった。
ニュアンスは感覚だけど、前者は能力というかもう才能があるかないかみたいな極端なレベル。
だから能力がなければ努力したってたかが知れてる、みたいな無意識な苦しさがあった。
それが、初めて挑戦すると石ころみたいなものが持ち物に加わって、
練習すると少しずつ磨かれていって、ツルピカの石ころとかなんか綺麗な石になったりするみたいな。
最終形が宝石なのかもわからないけど、宝石じゃなくて全然良くて。なんか進化していく感じ。
私が好きだと思う石になったらハッピーだろうなみたいな。最終形が決まってないからこそいい。
他の人の意思がビカビカだったりダイヤモンドでも、それはそれで。
私の石を私が愛せるかどうか。みたいな。似せる必要もなく、比べる必要もない。
あれだね、英語で話しかけられた時に、
I can’t speak English. と答えるか
I can speak English just a little. と答えるかみたいな差が発生してる。
泳げません。から、ちょっと泳げるようになってきました。みたいな転換な気がする。
実際、I can speak English. っていつになったら言えるんだよって感じするし。
その他
自信ってどうやってつけるんだろうと思ってた。自己肯定感ってなんだろうって思ってた。
いろんな本を今まで読んできて、自分を褒めよう!とか言っても、いや、無理に褒めても。っていう
すごく嫌な気持ちがあって。もちろんそういう本はそれを承知で自分に暗示をかける、というか自分にかかった暗示を解く作業をしているのだと思うけれど、自分にはなかなか続けられなくて。
「自分はこれでいい」って思うのはできても、いや、だめだろ…というのがやっぱりある。
それはやっぱり生きていくことっていうのは人に迷惑をかけることでもあって、
ただ自分がお金がなくて最低限の暮らしをしていたり友達がいなかったり仕事で最低評価なだけならいいけど、そして一時的にそれでいいっていうのはもちろんわかるんだけど、
変えられる部分を探すのも必要だし自分をとにかく肯定するのはちがうんじゃないかと思っている。
自分はこれでいい!って姿勢は一歩間違うと自分の照らすべき部分を覆い隠して、同じく覆い隠したい人たちと集まって肯定し合う結果になってしまうのではないかと思う。それが幸福ならいいのだけれど、そう思えないから違和感があるのだと思う。生きづらさってそういう部分に隠れていると今までの人生から感じている。
自分が抱えている気持ち、マインドフルに、否定せずに、頭からの肯定もせずに、ただ味わって受け止める、というのが効果的でじわじわ効いてきていると思う。
特に怒りとか不快感。感じた時に、攻撃や他責に変換せずに、「あっ…いる!」と存在を認知して
いるな〜いるな〜…う〜気持ち悪いな〜…と見ているだけでも、ある程度までは消化される。
そういう感情を抱える自分を責めたりせず、理由も追求せず、ただどこからきたのかな〜とか
いつからいるのかな〜くらいには目を向けてあげる。
なんか漫画やアニメのファンタジー作品で、
オーラとかスキルとかマナとかそういう気の流れ的なものを使うやつ、あれのコントロールって
結構「体の中のマナの流れを感じて…」「手にオーラを集中させてパンチ」みたいな表現あるけど
ああいうのの鍛錬のイメージに近いかも。まずは感じる。
今までは感情を押さえつけたり無視したり、形ごと変容させようとしたりしていた。
すると望まないタイミングで爆発したり、もてあまして虚無ったり、生きてる心地しなかったり、
自分が自分じゃない感じというか、他人みたいな、そして無力感。
魔力欠乏症とか魔力の暴走みたいな…(※そういう漫画読みすぎ)
今はとりあえず存在を感じて、場面に応じて一旦脇に置いておいたりすることはできる。
なくしたりはできないししないけど、移動させる、そういう意味のコントロールはできる。
そうして自分の感じたもの、もっと言えば自分の中に自然発生するものを、ただ受け止めていると、
「あ、無視しないでいてくれるんだな」
「否定しないでいてくれるのかな?じゃあ伝えてもいいのかな?」
って、より自然に近い感情がひょっこり、ひっそり、顔をだすようになってくる。
二次感情の怒りよりも一時感情の悲しみが、恐る恐るこちらに気づいて欲しそうに顔をだす。
それがまず、自分への不信感が薄れて、安心感が高まっている証拠だと思う。
そして先の項目で書いた自分への信頼感も、こういう感情を受け止めることや、
その上で自分のしたいことに正直に行動したり、感情を実現したり、意志を主張したり、
不当な扱いに抗議したり、世界、社会との関わりの中で感情と自分という個を尊重することで、
少しずつ取り戻していけるのだと思う。
そう、増すというかは取り戻す。私は元から私で、ひとつのかたちだったはず。
それが意識と無意識と、いろんな部分で分裂してしまった。
今やっと、少〜しずつ、「自分は自分」と本当の意味で思えるようになってきている。
見た目が地味でも、どういうふうに着飾っても、それが私の根本の価値を変えることはない。
太っていても、お金があってもなくても。人から見て立派でもそうでなくても。
今まではよく「こんなのは私じゃない」と自分のすべて、自分の姿形や能力を否定していた。
プライドが高い、という表現になるが、意外とプライドが高いって自己評価が高いの意味ではないなと最近は感じている。むしろ逆のことが多いかもしれない。
〇〇としてのプライド、と気高さや鼓舞のニュアンスで使われることもあるけども、
それが本当のプライド、誇りなのだと思う。
私に使うような「プライドが高い」のプライドは、「こんな私でいてはいけない」「こんなのが私だと思われてはいけない」というのが近いと思う。
それを、最近では「”今”の私はこんな感じ」…ふむ、という視点で受け取れるようになった。その上で、もっとこうなるとよさそうとか、太ったのいやだな…とかそれはそれで受け止められるようになった。
だからこそ、ダイエットのためだったり綺麗に泳ぐ筋肉のためだったり、牛乳を低脂肪に変えてみたりジュースを少しやめてみたり、なんだか今までのダイエットよりかなり現実的な選択を自然にできるようになった気もする。
落ち込んだこともある、でも今月は割と気づきと変化の月だった。
カウンセリングではやっぱり過去の傷つき体験や人との関わり方の部分を聞いてほしい。
そのうえで夢のことも先生に聞いてもらえたら、すごく心強い。