自分で選んだもの

引っ越したいな。でも私は今住んでいる街が好き。
引っ越すなら圧倒的に今の街から出た方が相場はいい。

そういうふうに考えている中で気づいたこと。

私が住んでいる今の家は、自分が選んだ土地で自分の力で選んだ家。
私は昔っから、家が好きだけど、いついてもいい家っていうのがなかった。
安全じゃないとか、邪魔者扱いされるとか、もう入れないとか、
父性への憧れと同じくらい、住処への憧れがあるかもしれない。

住み始めてからも、この土地が好きだし、ずっと住みたいと思ってる。
ただやっぱりキッチンの狭さや収納の少なさ、家電を置く場所のなさ、
そういったところに不便があって、机や家電もいくつか買い替えたいけど
引っ越し先に合わせて買う方がいいから我慢したりもしている。

色々考えて、やっぱり私は自分が自分で選んだこの街には住み続けたい。
だから出た方が家賃相場は低くても、この街にいることを選びたい。

わたしが親や大人、友達の評価を気にしたり、他人に気を遣ったり
「ふつう」を気にしたりせずに選んだ数少ないもののひとつがこの家。

昨日、少しウォーキングをしたのだけど
コブクロの「未来」のUruカバーを聴きながら歩いていた。
そこでなんだか「将来」と「未来」の違いを考えたりした。
最近のわたしは将来を考えてばかりだった。このままだといけないとか、
同年代はもっとこうだとか、自分が将来どうするのか、どうなりたいのか。
考えては疲弊していた。

未来に思いを巡らせたら、なんだか少し救われたような気持ちがした。
予測できないことを、計画できないことを未来という言葉は許容している気がする。
今の所将来性はないけど、生きている限り私に未来はある。
その未来の空白に、その余白に、小さな希望を見出している。

先に書いた通り、自分で、純粋に自分の本心で選んだもの、というのは少ない。
そういうものを、これからは集めていきたい。

先日高速バスに乗ってライブ遠征に行った。
それも自分で考えて行動した。結果的に満足だった。

お茶を買って飲むとか、好きな服を買うとか、そういうことひとつひとつ、
自分の心で選んだものを増やしていきたい。そういうものに囲まれて生きたい。

お金がないからこんなもんが妥当だとか
お母さんがよく思わないからとか、
似合わないからとか、そうじゃなくって、自分で選びたい。

似合わない服を着るのはあまり好きじゃないから結局買わないことが多いけど、
着たいなら着ていいと思う。自分がその服を着ることでまわりにこう見られたいみたいな別の感情が潜んでいる時は、逆に買わなくてもいいかもなと思う。

いくつ集められるかな。自分が選んだもの。
消去法じゃなくて、ありもので間に合わせるでもなくて、自分が、自分で、能動的に選ぶもの。