先日どういうことを話そうかとまとめたり、
そのあと不調がきたりしましたが、
そういう不調が来た時、ある程度落ち着いてからだけど
そういう時ほどスキーマ療法のワークを進めるようにしている。
なにかが表に出てきているような気がするから。
数ヶ月前に、スキーママップを作るワークをしたのだけど
その時はまだ、自分の中にあるスキーマがはっきりとはわからなくて
なんとなくこうだろう、こういう感じな気がするというものを書いた。
そのスキーママップを、もう一度書き直してみることにした。
すると、一回目と重なる部分と、新たに見つかった部分、違う見え方をした部分があった。
一回目も二回目も、自分の中にあるスキーマのラインナップはだいたい同じだけれど
割合や出てくる場面はだいぶ違いがあった。それだけクリアになったということだと思う。
一回目は、感情抑制スキーマと欠陥・恥スキーマが薄く広く存在していて
形がはっきりしているのは不信・虐待スキーマとか
愛されない・わかってもらえないスキーマ、見捨てられスキーマ、服従スキーマだった。
そして自分をコントロールできないスキーマも書いていたけれど、これはADHD的な気質によるところが多いな、と気づいたので、二回目ではマップに書かなかった。
二回目は、どういう時にどういうスキーマが活性化するかが具体的になった。
5パターンに分けたけど、ざっくりと分類すると
・自己認識に関するスキーマ
・行動規範に関するスキーマ
に分かれるなと思った。
前者は、自分には価値がない、自分は劣っているっていう側面のスキーマで
傷ついた結果のスキーマのように思う。
後者は、こういうことをするとこうなる、だからこうしなければいけないとか
自分が我慢すればいいんだとか、傷つかないための行動を選択するスキーマ。
多分、それぞれ個別にあるというよりは影響しあっていて、大きなスキーマを形成しているようなイメージだと思う。
そういう意味で一番大きいのは、やっぱり欠陥・恥スキーマ、感情抑制スキーマだと思う。
まぁそんなこんなで不調の中でも発見をした状態で病院に行きまして。
まだ今ほど整理はできていなかったけど、話を聞いてもらった。
病院に行くと前回の通院日から今まであったこと全部話したくなるけど、
こないだ事前にブログでまとめたことで、ある程度自分の中で満足した部分もあって。
今話したいこと、と大きな変化だったな、と思うことを中心に話した。
不調がきたときにワークを進めたらこういうことに気づいたとか、
自炊の本の話と、些細な夢ができたとか、帰省の間隔を空けたら意外と大丈夫だったとか。
先生からは、
あと自分一人でいる時も涙が出たりするか聞かれて、
カウンセリングルームの外で、例えば自分でワークを進めていくとか気づいていくことができる人って、そういないんだよっていう感じのことを言ってもらった。できるできないが、いい悪いということではないと思うけども。
他の人がどういう感覚なのか、標準がどこなのかわからないけど、自分は自分の内面を見るタイプの人間だとは思う。なんだろう。自責も強いけど諦めなさもあるのかもしれない。内省的、ってすなわちどういうことなんだろう。
あと、そういうスキーマに気づいたのが一歩だってこととか、
こういうスキーマをもっているとどうしてもそこに自分から持っていってしまうんだけど
自分のことを気にかけている人もちゃんといる、というふうにスキーマを書き換えていくと、
そういう関係も築けるようになってくるよ、という話もしてくれた。
(細かいニュアンスは違うかもだけどそういう感じのこと)
そういう話を聞いていて、
いくらか前にワークの一環でハッピースキーマを考えたけど
そのハッピースキーマの一部は日常的に基づいた行動を起こせてたものの、
実践できてないハッピースキーマ部分は、よくないスキーマに呑まれっぱなしだったと気づいた。
そう、自分のために自分のお金や時間、気力を使う、というのは結構実践できている。
もちろんお金も限界があるし緊急時のためとか色々、バランスをとる必要もあるんだけど
今までが制限や抑圧してばかりだったから、やりすぎとか失敗含めて
経験しながら調整するくらいでいいのかなと思う。
何か起きた時になんとかするのも、多分できる…と、思えるように。
楽観とは違う、自分に解決できるに十分な力があるっていう自己信頼を構築できるように。
で、対人関係については根深そうで、最近もずっと呑まれていた。
けれど直近で人と出掛けて楽しかった記憶もあり、一旦それはそれで、「自分が」楽しかった記憶としてとっておこうと思った。他の人にとっての楽しさはやはり自信がないけれど、私は楽しかったぞと。
ブログを書くのがすこし久しぶりになったのは、
この間にライブに行ったのだけど
書かなくても(言い換えれば、人に聞いてもらわなくても)いい、というか
逆に感じるものが大きすぎて、一言も言葉にしたくない、私が感じた気持ちを言葉にすることで形にしたくないと思ったから、何もいえないというよりは何も言わないことを選択してた。
自分的には変な感覚だった。自分だけの気持ちだってことだから。
で、そういう噛み締め期間を経て病院に行き、病院でのこともちょっと噛み締めたりして
なんやかんやで日が空いたのでした。
なんだろうね。人に言って喜びを分かち合ったり、悲しみを共有したり、自慢したり愚痴をこぼしたり
人に話す動機って色々あると思うんだけど、確信めいたことってのはあえて口にしなくていいなって思うのかね?「感動したけれど言う相手がいない(気持ちをわかってくれる人、興味を持ってくれる人、そもそも私の話を積極的に聞いてくれる人がいない)から言わない」ってことは今まであったけど、こう言うふうに言う必要性や欲求自体を感じないのは今までなかった気がする。
まぁそんな感じです。いつもの薬局で声でか薬剤師さんに薬もらって帰りました。(その人声でかいし若干威圧的な雰囲気は持っているんだけど自分の肌感覚的に性格がそういう人って感じがしないから、なんか安心感がある気がしてあえてそこに通い続けている)
図書館の話
近況。図書館の利用者の手続きしたので地域の図書館使えるようになった。
仕事関連の本とか、工作の本とかを借りた。
最近電子書籍で読みがちで紙の本いいなと思ったり、
図書館は古い本もあったりするから、ネットで買って読むのと違う読書体験だなと思ったり、
昔家にあった本を適当にとって暇だから読んでい他時のような、
勉強じゃなくて娯楽として読んでいる感覚が強かったり、ちょっと新鮮な気持ちだった。
特に仕事の本は、買っても読みきれなかったりあまり実践できないことも多いから
最近は不用意に買わないようにしていたのだけど、
ネットで買ったり、店舗で立ち読みしたりするよりももっと気楽に、なんというか気安く開いて
満足したら置いていい。っていう心持ちで読めてすごくよかった。
「読まないといけない」っていうプレッシャーなく、ワクワクする気持ちで読めた。
あとは古めの本で、昔この仕事を取り巻く環境ってどうだったのかなと思いを馳せたり。
6冊くらい借りて帰って、パラパラめくって読むのが楽しかった。
やっぱりなんか本って好きなんだよな。自分がこうしてブログ書いてるし
ブログでハウツー系の記事みたりYoutubeで解説動画みるのもすごくわかりやすくて
ありがたいんだけど、本、特に紙の本が持ってるあの独特の世界というか…開く、めくる行為と一緒にある体験がすごく好きなんだよな。CDを聴く時の曲順だったり曲の間のあの数秒とか、ああいう文脈ありきの体験の良さってのもあるよなぁと思ったり。
多分普段そこまで深く考えてはいないにしても、自分で買った本って、買ったコストとか、家で抱えている在庫、スペースを占めるモノ、的な要素の存在感があって、なんだか重たく感じるような気もしていて、
図書館の本は、もっと純粋に本と触れているような感じがする。
昔は漫画はじめ本買ってもそんなこと思わなかったはずなんだけどね。
昔はよく地元の図書館で習い事帰りにドラえもん借りて帰ったもんだったな〜。
入り口のドアの音とか、あの足音の響く感じとかが鮮明に思い出せる。
なんか色々かたったけれども、図書館に行ってみるアンド手続きして借りられるようになったぞヤッターという気持ち。この土地に根を張っているような感覚も、少し嬉しかったりする。
余談
終わるつもりだったが久しぶりにブログ開くと書きたいことはあるもんで。
最近ちょっと思っていること。将来と今の話。
転職の機会が多かったのもあって、3年後、5年後どうなっていたいかとか答えることも多かったし
環境が変わるたびにこの先どうなるかとか、こうならないといけないとか、
色々先のことを考えることが多かった。計画して行動できているかとか、その通りになってるかは別として。
そして不安もやはり将来の不安が多くて。
このままでいいんだろうかとか、今のままじゃいけないとか。
最近、将来のことって、そんなに大事かなぁ…っていっちゃなんだけど
軽視してるわけじゃないんだけど、そんなに将来将来って、私が将来に求めてるものって、なんなんだろう?って疑問が少し湧いてきた。って感覚が近いかも。
それと反対に、今ってそんなに軽視していいものなのかな?とも。
今の積み重ねが未来、将来ってのは大前提だけど将来に目線が行きすぎてた気もする。
なんていうかそれって今の自分じゃない何かになろうとする行為っていうか…
私だって今のままじゃダメだって思って頑張った時期があるから
それ自体悪いことじゃないんだけど
今の「私」の場合ちょっと違うんじゃないかなって思い始めている。
別に今の私が過去の私の怠惰や過失でできているわけじゃないし、
今の自分を否定したくないような気がする。
文体が「気がする」ばっかりなのは今はまだそういうぼんやりした感覚だから。
今の自分全肯定もできないんだけど、今のままの自分じゃいけないっていうのはちょっとひどいような。
同世代と比べてお金もないし友達もいないし出世も仕事の才能も見込めなければ恋愛経験もないけども
人生周回遅れだけれども…そのレースに勝ち残る?走り続ける?重要度って人によるんじゃないかと。
ていうかそれでいえば目指そうにも今更一等賞も上位入賞も多分可能性的に無理だし。
あえて競いに行くのも、同位帯とわざわざ競うのもなんか違う気がするし。
だったら何位なのかは知らんけど道端の花でも愛でてマイペースにいこうかなというような感覚かな。
とまぁそういう感覚もありつつの、今の積み重ねが将来だなぁって。
実際、そんな風に思っても後悔したり自己嫌悪に襲われたりってあるんだけどさ
そういう気持ちに襲われるたび、それに家族がそういうものに襲われているたびに
ちょっと悲しくなってしまって。
結果だけ見て自業自得だっていうのは、あんまりに残酷だなぁと思ったりもして。
なんか話がぼんやりしまくってるけど、今の積み重ねが未来だけど
そんな予測してコントロールできるものでもなければ、人が評価できるものでもなくて
やっぱり否定って悲しいなぁっていう。(まとまらない)
以上。