時間を無駄にしない人の習慣…的な名前の本を読んだ。
それが自分的にすごく納得のいく内容で取り入れやすそうだったのと、
発達障害とか精神疾患とか、そういう文脈で語られがちな「できないこと」を
誰でも持つ脳のクセと言っているのが自分の中ではなんだかうれしかった。
図書館で、複雑性PTSDと回避性パーソナリティ障害の本を読んだ。
それ以外にも、いくつか仕事や日常に関連する本を借りたり読んだりした。
そこで思ったのは、”私の場合”、障害の有無や診断名は関係ないなということ。
それらは適切な支援やケアを受けるためのものだと思うので、あくまで私の場合はと書いた。
私の場合、色々と入り組んでいて、正直発達障害(もしくはその傾向)の有無だとか
例えば抑うつ、複雑性PTSD、回避性パーソナリティが病名?としては可能性があるのかなと思ってるけど
医療者の基準でそれに当てはまっても当てはまらなくても、その治療アプローチが回復につながりそうなら取り入れたい。
病名がつかないならつらくなんてないわけじゃないし、病名があるからって仕事休むわけにいかないこともある。
大事なのは今自分が苦しんでいたり困っているところにあると思う。
そういえば、私が病院に通い始めた頃。うろ覚えだけど。
今のクリニックではない大きな街の心療内科だった。
当時心療内科がどこも予約がとれなくて、大きなところに行くしかなかった。
当時は苦しかったは苦しかったが、仕事にもいっていたし(時々休んだけど)
母がうつ病だったこともあって自分はそれと比べて元気そうだと思っていたし
(当時の自分の視点では)自傷をすることもなく眠れないこともなく
今思えば涙が出て寝れないことはあったけど寝たいのに寝付けないみたいなのはないから不眠じゃないなと思ってたし
ごはんは普通に食べるし学校や仕事には一応行ってるし
正直いろいろきつかったけど、自分にとってはずっとそうで、でもなんとかなってるし、
自分みたいなのが病院に行くなんて甘えなんじゃないかって思っていた…と思う。
病気じゃないと言われたらそれこそこのつらさに逃げ場がない…とも思って怖かった。
でもどうしてもきついときがあって、そういう時に「心療内科に通う基準は自分が困っているかどうか」というふうに言っている医療従事者の人がいて、それでしばらくしてから行くことにした。気がする。
それで実際行ったら血液検査やあの木を書くやつやったりして
先生ともう一人くらいPCに何か打ち込んでる人がいる部屋でカウンセリングしてもらって
でもなんか独白をしている気持ちで、いやしてるんだけど
話しながら私は何を話しているんだろうと虚しい気持ちにもなって
この人たちは私が大したことじゃないのに来てどう思ってるんだろうとか余計なこと考えたりして
よくわからないけど薬を出されて、飲むと何となくふわふわして、つらいことは確かに考えにくくなったけれど
なんだか何にもなっていないような気がして、受診料も安くはないので
同じ成分?の薬を通販で手に入れたりしてしばらく過ごした。
それが私にとっての心療内科の記憶。で、結局通うのをやめてしまった。
通い続けたら何か違ったのかもしれないけれど、なんだか大量の患者を効率よく捌く病院に
それ自体なんら悪いことはないんだけれど、生きている心地のしない自分が、さらに無機物のように思えて
自分の声は医療者に届いていない気がして、でもなんだかそれっぽい共感の言葉は言われるわけで
そういう機械的、事務的な対応を浴び続けていけば、
…ある意味今の本当の状態よりも、落ちていけるんじゃないかと思えて。
それが当時こわくて。私は、生きるのがつらいのを緩和したかった。それはそうだけど。
生きるのがつらいけど、このつらい感覚をなくしたら生きながら死んでしまうんじゃないかって思えて。
感覚的には当時死んでいるように生きてはいたけれど、それでも感情は息も絶え絶えに何かを伝えていたわけで。
その感情の、心の口をふさぐことが、治療なのだったら、私は一生救われないんじゃないかって。
そういう気持ちだったと思う。
病気と言われるのが、もしくは病気じゃないと判明することが怖かったわけでもない。
ただ、自分を苦しめるこの感情が、取り除かれるでもなく、ただ信号を受け取らないように感じなくなるのは怖かった。
もっと昔は「喜怒哀楽の喜も楽もいらないから、哀しい気持ちを感じないようにしてほしい」ってよく思ってた。
だけどその頃にはそうじゃなくなってたのかな。
なんかいろいろ書いたけども、その時間を無駄づかいしない的な本にね、
スマホを視界に入れないとかそういうのもあってね、
まぁもちろんデジタルデトックスが謳われる時代ですからよくある方法論ではあるんですけど
自分のスマホが視界にあると作業パフォーマンスが下がるとか
デート相手がスマホをテーブルの上に出していると信頼度が下がる?とか
(※いろいろうろ覚え)
あとマルチタスクはよくないとかね。
歳を重ねるごとに時間が短く感じる理由の説明のところで
スマホ見ながらもそうだし本を読みながら食事したりするのもよくない的なのを読んで。
なんか新鮮に感じる知識だったのと、実際食事は食事、本は本、とそれ単体に集中するようにしたら
充実感増すなと気づいたのもあり、最近は何事も目の前のこと、今していることをマインドフルに感じようと思っている。
図書館に行って本を読むのも、あえてスマホを開かず、本のAmazonレビューを見たりせず、
ただ本棚の本を、なんとなく気になるものからパラパラめくって読んでみたりした。
そしたらなんだかおもしろかった。
仕事の勉強をしようとして本を買うことはよくあるのだけど
どこか強迫的というか、自分に課題を課している感じがあるのだけど
図書館の本はなんだか栄養を自分に与えているような気持ちだった。
なんだろう。同じ本でも。前者は課題図書とか宿題として課されるような気持ちで
「やらなきゃ」「読まなきゃ」「理解できないなんて自分はだめなやつだ」ってなるんだけど
後者はただ図鑑をパラパラめくっているように、自分の欲しい知識を満たしていくような体験。
「あれはどうなんだろう」「へぇそうなんだ」「もっと知りたいなぁ」という感じ。
単に費用の問題ではないんだろう。わかんないけど、図書館ってすごい施設だなと思ったし
地元の図書館の充実度に感謝もしつつ、本を読むっていいなと実感した。
今は心のことや仕事のことについての本ばかり読んでいるけど、
もっと娯楽としての本も読みたいなと思った。小説とか、普段と違う学問とか。
自分の心のことじゃなくて、福祉にかかわることとかも。
昨年から今年にかけて神社仏閣に行くことがあれば自分の気持ちの整理がつくようなことを願ってるのだけど
早くもいろいろ、変わっていっているような気はする。
そろそろ縁切り神社いく予定立てようかな…そうでなくても、少し遠くの景色が見たい。