裸のこころ

もしも私を苦しめるスキーマがなくて

ブログを読んでる人が仮にいたとして、だけどもし私のことを批判しない人だったとして

私のことを脅かすことが起こらないとして

私の心に恐れが不安がなくて

隠すことも着飾ることもしないでいられるとしたら

私の心はどんなことを伝えるのかな

私の心はどんなふうに過ごすのかな

生きてるのに生きてない気がしたり、過去が抜け落ちたような気がしたり、どこにも居場所がないように思える日ばかりで、日々苦しさはいろんな側面を見せて

それでも

…事実私は生きているわけで、

いろんなところで言葉を綴っていたりする。

日記、ブログ、掲示板的な投稿サイト。

一度書いてしまうと、文章ってなんとなく自分と一体ではない感じがするから他人みたいに見える。

だから床に落ちた髪の毛を見るような感じ。自分が書いた感覚が薄い。いいのか悪いのか。

でもそうやってなんとか日々を繋いでいる。自分の中に溜め込めなくなった気持ちをなんとか外に出そうとしている。客観的に見ると不思議と生きてるんだなと思う。

言葉に出せない、口に出せない。だけどこうしてテキストで書き連ねる。それさえやめてしまったらと思うと怖い。

生きることは動詞なのが不思議。形容詞ではないのだ。

ブログでは本音を書いていると思っていたけれど、もしかするとやっぱり読み手を意識してどこか私の無意識によって検閲されたような文章なのかもしれない。

個人情報は含めないようにしてたけど、その結果書けないことも多くあった。濁したものがたくさんある。

私は病気または障害があるのだろうか。

もう何十年と悩んできたことでも、私は自分が病気なのかそうじゃないのかを一度も知ろうとしたことがない。一つは病名がつくつかないが苦しさの大きさとは関係ないと思うから、病名を聞いて安心したり、甘えたりするのが嫌だった。一度抑うつの診断書をもらったことがあるが、あれは便宜を図ってくれたようなものだ。ある程度、医師の匙加減なのだと思っている。

そしてもう一つは、聞くのが怖いのだと思う。病名がつかないことが怖いという意味でもあるし、病気なんでしょうか。と医師やカウンセラーの先生に聞くことが、それ自体がなんだか愚かなように思えて、わずかに繋がっている先生たちとの関係を、自分で壊しに行くようなことの気もしている。

病気か聞くことは、自分は病気だと思ってますと伝えることで、その意思表示によって自分の立ち位置をひとつ決めてしまうことに思える。うんうまく言えないな。だけどとにかくそう。病気に寄りかかろうとする自分を人に晒そうとする行為だと、多分思っている。無意識に。

というか。周囲にそう思われると思っている。病気を名乗ることは、周囲に病気をもってるから仕方ないのだと主張するようなことだと思っている。すると腫れ物扱いされたり、なんというか周囲からしたら面倒なやつだと思われるんだと、思い込んでいる。

陰口を叩かれると思っている。だからカミングアウト的なことはできない。と思っている。

もうわけわからん。カビゴンのお腹の上で眠りたい。