「偶然」という要素

今日は書きたいことがふたつあり、そのうち一つはあまり雑記のなかの一話題として扱いたくなく、分けて書こうと思っている。結果的にもう一つも単一記事となる。(脱線しなければ)

今回、書きたいことを少し、人にも伝わるように、いつもよりは考えて書きたいと思います。文章はいつも通りだけど、構成がなるべく行ったり来たりはしないようにしてみる。

今日したこと

今日はスイミングに行ってきた。
実は今日も遅刻しそうになってしまった。
結果的に間に合ったのだが、急いで向かう途中で「遅刻したくない!」と心で強く思い、
その「遅刻したくない」のはどうして?とこんな時ではありながら問いかけてみた。
今までの自分は遅刻がとにかく悪いことだから、だらしないことだから、見放されるから、人の目が恥ずかしいから、とかそういう感じだったと思うのだが、
今日の答えは「スイミングをちゃんとやりたい」「時間を守りたい」だったような気がする。
ずっと回避のための「〇〇したくない・されたくない」思考で追い込まれていたのが
自分が成長のために一生懸命手を伸ばしている感覚になっていた。

そしてスイミングに行った後は、前回のスクールの後に、Youtubeで楽に泳げる泳法の動画をみたりして、フォームを考えたりしていたのが功を奏したのか、前回よりもうまく泳げて、施設の仕組み的に折り返しで立ってはいるものの50mくらいを続けて泳げた。
こういう、
・ここがうまくできたなっていう感覚
・このくらいできたんだなって数値
いわゆる定性的・定量的の両方でセルフモニタリングして日々の成長やコンディションを見てあげたい。

帰りにたまたま目に入った古着屋さんに入って服を物色。
色々良い服はあったのだけど、試着してみたらしっくりこなかったりして実際買ったのはその半分以下。
買った服は似合う服を安く変えてお得だったし、
買わなかった服、好きでも似合わなかった服、それもまた、自分がいいなと思ったポイントが色々で、
ある服は「普段着やすそう」またある服は「この色かわいい!!」とか「黒でも素材で変化が出てておしゃれ」「裏地オレンジで超かわいい!」という感じでたくさん心が動いた。
それと同時に買うか買わないかの判断は、似合うかどうかと価格。
もっとここがこうだったらとか、こういう系統は着てみるとイメージが違うなぁ。とかそういうところがあったり、かわいいけど「安いから」買うになっちゃってる気がする、とか。
安いから買う、はあんまりしたくない。すぐダメにしちゃうものは安いのでいいんだけど、「安いもので済ませる」のはなんだか心がショモショモするなぁと思う。
最近ずっと靴を買い替えたいと思っていて、今日たまたまコンバースのいい色のスニーカーがそこそこの値段で売っていて状態も綺麗だったからしばらく買おうか考えてた。
2つあるうち一つは、色がいいけどワンポイント余計な装飾がついていた。
もう一つは、色がかわいくて持っていたらワンポイントになりそうだけど、持ち合わせの服で具体的に着るプランがないのと、ほんのちょっと足先がきつかった。
どっちも、もし変えば普段使いしてちゃんと履くと思う。でも、最近ずっとどんな靴がいいかって考えていた自分の理想の靴とは、全く違う靴。もしこのコンバースのどちらかを買ったら、もうその靴は予算的に買わなくなると思う。
そういうことを考えながら、靴は「ありあわせ」から選ぶんじゃなくて、自分で選んで買おう。と決心して買うのをやめた。

その帰りたまたま別のショッピングセンターの靴屋さんで、wearとかでみて欲しいと思っていたアディダスのシリーズ(安くても1万3000円〜)について店員さんに聞いてみて、結果的にそれはなくて、
他のメーカーのスニーカーをいくつか試し履きして買った。
おいおいアディダスのやつじゃなくていいのか?という感じもするが、いいんです。
アディダスのいい靴、仮に売っていたとしても、似合うかもわからず、その価格を目の前にして買う決心がつくかもわからず、ならば今目の前にある、手の出る価格の気に入った靴を買おうと思った。
ベーシックなデザインだけど、ちょっとした個性があって、そこがすごく自分は愛せると思った。

そのまた帰り、おそらく個人の書店を見つけた。
なんだかちょっと変なとこにある素朴なお店で、驚いたと同時にこの時代の、古書店というほどマニアックでもなく、エロ専門でもなく、庶民的で激渋な佇まいに惹かれた。自転車を止める場所が見当たらず、疲れてもいたので、今日は寄らなかったが、また日を改めて必ずこようと思った。

非効率で不確実、でも偶然ってすごく楽しい

この記事で書きたいのは、偶然ってすごくいいな、ということ。
スイミングスクールといて選んだ場所がそこだから、そのへんで買い物をしたこともそうだし、
帰り道、古着屋さんでの服選びもそう。
最近私は人の評価より自分の感覚を信じられるようになったからこそ古着を楽しめるようになったと思う。
今まで、服を買う時は特定のショップを目指して出かけていた。そうすると予想のつく値段だし、ハズレもない。〇〇のショップの服を着ている、というのも例えばしまむらだけを着ているよりなんとなく自信がつく気がした。(※しまむら好きだししまむらを着るのがどうと言いたいわけではない)
でも古着屋さんはいろんなブランドや系統の服があり、カジュアルからモードまで、気軽に手に取ることができる。普段入りにくいお店の服も、場違い感なんか感じずに試着できる。
だから自然と、自分の心が惹かれるかどうか、で服を選ぶことができる。
そして自分だったら買うことのない服や、偶然の出会いがある。

私は基本、赤と緑とかパステルカラーとか色のある靴は買わない。
今日行ったお店に、紫色の靴があった。サイズが合わず断念したが、
どうしようもないほど好きな色だった。履くかどうか以上に、綺麗だ、と思った。
他にも、すごく可愛い色のパーカーや上着もあった。
こちらも諸々の理由で買わなかったが、キュンとくるものがあったし、小さな感動でもあった。
ショップに新品として並んでいる時、それはなんだかそのショップの名前を冠して見えていると思うし、
「その服を着ている自分」というイメージも売っていると思う(それはそれでファッションていいなと思う)

それが古着としていろんな服と混ざってハンガーにかかっていると、
ただ純粋に、一枚の服になった状態で目に入る。その一枚の服の持つ本来のよさに惹かれるときがある。
そういう経験を通して、私はこういう色が好きなんだなとか、こういう服が似合いたいんだなとか、自分の形も浮き彫りになってくる。

広告やマーケティング・SNSにお膳立てされた出会いではなく、こうした、道端でたまたますれ違うような偶然は、すごく大事な刺激だと思う。
最近、AIの発達やキャッシュレスだったり諸々の電子化で、情報はすぐ手に入るし、効率的なサービスもたくさんあって、わざわざ紙の本を読むことも減り書店は続々潰れ、イラストや製図・デザインなどもデジタルが主流で多くのアナログ用品はなくなり、日常の買い物もネットで済ませられるようになった。
それが便利だと思う反面、寂しく思うのは、自分が時代に取り残されているからなのだろうか?と、ずっと不安に思っていた。
でも今日感じた。こういう、今の時代で非効率に見えることは、自分にとってすごく大事な体験だと。
本屋を歩いていてたまたま背表紙が目に入ったからと手にとったり、
たまたま出向いた先で、出会った人から面白い話を聞いたり。
たまたま出会うことで自分の人生は今までも変わってきたし、これからも変わっていくんだと、
効率化された世の中だけど、ずっとこの感覚を大事にしていきたいとおもった。

上手くまとめたかったが案の定まとまらなかった。でもこれが今の限界!
時々こうして、ちゃんと一つの記事でまとめる努力をしてみよう。
そうしたらそういう記事を後から見返して、文章が少しは上手になったかな?って楽しむことができるからね。水泳と一緒。