毎日毎日いろんなことが頭を駆け巡り、どれもとりとめのないことばかりなのだが、
たまに頭の片隅を掠める大事なことも簡単に埋もれていってしまうから困る。
このブログは何気に80記事を超えたのだが、
こうして書いていると私は結構ブログが好きなんだなと思う。
というか、このブログを気に入っているだけなのかもしれない。
世代的に、学生時代からブログに馴染みはあった。
でもここまで、長くまめに続いたのは初めてだ。
文章を書くのは苦手で、どれだけ書いてもへたくそでまとまりのない文章だと思う。
自分のために書いているから、そんな下手くそな文でもあまり気に留めず続けられている。
私はとにかく、SNSの投稿やブログ記事を消すことが今まで多かった。
人に見られることを意識し過ぎたり、自己顕示欲が出てしまったり、メンタル的にもちょっとしたことで自分を責めていたりしてなかなかモチベーション維持ができなかったり、せっかく筆を取っても大したことない内容だと一蹴してブログをやめたり、記事を削除したり非公開にしていたのだと思う。
このブログは、アクセス解析も入れてないし、ネットにあげている以上、誰かに見られているかもというつもりではいるが誰も見てなくても別にいいような心持ちで書いている。
あまりに個人に繋がりそうなことを書いた時は手直ししたり削除もしたことあるかもしれないが、ほぼ記事は消していない。
飾らないけれど、それでもある程度、他者が読んで気持ちを害されるレベルの悪意あることは書かないようにしている。落ち込んだり怒りが湧いたときに、4ねとか言うのは簡単だが言いたくない。
それはネット上とはいえ不特定の誰かに対する自分の最低限の礼儀のような気もするし、この場所を掃溜めのような粗末な扱いをしたくないという気持ちからだと思う。
とにかく、ブログが今までないほど続いているくらい、このブログを自分は気に入っているようだ。
毎日書くなんてノルマ設定はしていないが、毎日なんとなく「ブログ書きたいな」と思ったりする。
今はスキーマ療法ワークやカウンセリングのこと、落ち込んだ時や嬉しい時の感情の記録、などをしているが、徐々に元気になって日常のことを書く割合が増えたら、なんとなく、いいなと思う。
今、自分にとって影の側面を中心に書いている。でも、今はその影が自分を形成する大きな側面となっていて、日々その部分とほんのわずかな光の部分が戦っている。
これがいつか、影自体が私の心を占めるのではなくて、時折「影を落とす」くらいに、面積なのか濃さなのか、なんかこう、、、薄まればいいなって思う!(語彙力がない)
そうしたら、すでにここには本音を書いているのだから、自分のポジティブな気持ちを表現した記事が、どんどん増えていくわけで、そうしたらすごくいいなって思う。
最近書きたかったことが渋滞しているのでちょっと消化しておく。すごく長くなる。
光の原理の本を買って読んでる。屈折とか全反射とかそういえば昔理科に出てきたなぁと思いながら読んでいた。「全反射」って、聞き覚えはあるけど意味がわからないな、と思って真面目に考えてみた。本を読んでなんとなくわかってもそれってつまりどういうこと?状態だったので、ペットボトル切って水入れていろんな角度からみたり、Youtubeで動画見たり色々していた。
その中で、スイミング用に買ったゴーグルをお風呂でつけて、お風呂から水面を見たらいけるのではと思い、やってみた。そしたらすごく全反射だった。あれが全反射だと思う。
自分から見て遠くの水面(視線がが水面に対して並行に近づくほど)は水の外の様子が見えなくなり、自分の体が反射して鏡のようになる。多分昔から経験はしているこの事象に、理解が伴って初めて面白みを感じた。
あと、同じ本の中に水平線の方に見えている夕日は、実際見えていない的なことが書かれていて、それもすごく面白いなと思った。理科や科学が好きな人は、勉強して面白いよりも、体験や実験がベースにあって理論が伴っておもしろさが強まった人が多いんじゃないかなぁと思った。でも、勉強から入って私のようにそれってつまりどういうこと?と興味を持てたらそれはそれでいい学習体験だなとも思う。
何事もできれば体験から入れるときっといい学びを得られるんだろうな。
ネイルの道具を買った。
実は昔友達のネイル検定のモデルをしたことがある。
自分で本格的に本を買って正しい手順でやってみると、あの時友達がやっていたことの意味がよくわかった。そして、難しさを感じるたびに、そのぶん友達も練習して、あのくらい綺麗にできるようになったんだなぁと思いを馳せた。
ニュースZEROに八村塁選手が出ていた。櫻井くんがインタビューしていて、アメリカでバスケをすることの厳しさや困難だったりも話していたけど、その中で「トラッシュトーク」という、挑発や汚い言葉で相手選手を心理的に揺さぶる戦術がバスケ特有の文化としてあると話していたのが印象に残った。
そういったものがあるのを今まで知らなかったので驚いたし、
八村選手が、僕は一切言わない(言い回しは違うかも)と言っていたのがとにかく何よりかっこよかった。
プレーで見せる、そして最後笑うって言ってた。かっこいい。かっこよすぎて刺激されて家事が進んだ(笑)本当に。
こうして人から何か刺激を受ける、というのは時々ある。この間の、刑務所から出た人に声をかけて更生・自立支援活動をしている人もそう。24時間テレビに出ていた、コーダ(CODA:Children of Deaf Adultsの略)の女の子もそう。世の中には、いろんな経験をして、いろんな信念を持って、いろんな形で戦ったり生き抜いている人がいる。外側から見える華やかさや強さもあれば、見えていない傷や暗い影を落とす部分もあると思う。見せていない強さも弱さもきっとある。
自分が生きている世界は、自分が思っているより遥かに広いと感じる。ずっと忘れていた。ずっと、大学くらいからだろうか、なんとなく「普通」とは就活して就職して結婚して子育てしてそれなりの仕事を続けていくか、バリバリキャリアを築いたり何かを成し遂げるような、そう言うルートを指すと思うようになっていたし、ある種成功者とはこう、で、こう言う人は弱者、負け組…みたいなものがステレオタイプ的に自分の中にできていた。というか、自分はそれで言うと負け組の方であり、人を二分するようになっていたというわけではなく「普通」といいつつ「成功」の像を勝手に作り、それに当てはまらないなら自分には価値がないという、極端な思考に陥っていた。自分が社会的に、というよりも親にとって失敗、罪悪感、無価値という感じの落ち込み方だったように思う。
広い世界を見たい、広い視点や考えに触れたい、と思って10代を過ごしていたはずが、いつのまにか狭まっていた。経験によって「自分の人生こんなものか」と限界を見たというのもひとつだろうが、視野を狭めていたのもまた事実。自分はなんて愚かだったんだろうと、どうしても思ってしまう。その気づきは、視野を狭め始めた転機と同じように、視野を広げる転機でもあると思う。
仕事のモチベーションがない。それは以前ブログに書いた通り。
でもそれが自分の元々の性質な気もするし、仕事に対して関心があまりないのも多分事実だし、
ならそれでいいかとも思わない、仕事はちゃんとしたい、と言うのも事実。
この仕事をずっと続けるわけではない、というのも、やはりまた事実。
全部自分。全部自分の、元来の性質や性格。
その頃を取り戻した代わりに、本来今までにすべきだった成長はできていない。
自分が自分のまま生きていたら、多分色々ぶち当たって正当に傷ついたり反省もして成長していたんだと思うが、この数年か十数年を、他人軸で生きて、強迫観念で物事を成してきた自分は、その自分への呪縛を解くと、なんとも社会人としては頼りない子どものような大人だ。
やりたくないことはやりたくない。やりたいことは誰にも邪魔されずやりたい。ずっとやりたい。
それをよしとして、貫いて生きていくのか、
社会人としての責任を果たすべく、社会的な人間を目指すのか。
それも私個人の自由だ。肝心なのは自分で選択し、自分の選択に責任を持つことだ。
私は私の人生を成り立たせるという私に対しての義務がある。
今日、お風呂を沸かしながらお皿を洗っている時、ふと考えたことがある。
今日は帰りが遅くなった。私は仕事が遅いので仕方ないと思っていた。
一方、仕事もそこそこに早く帰る時は「私の人生だからこの辺で切り上げるべき」とも思ったりした。
ここに二つ相反したものがあるなと思っていて、
私が疑問を感じたのは、仕事で残業するかしないかとかではなく、
自分の時間は貴重なのだということを、もっと自分自身が理解しないといけないのではないかということだ。
仕事が遅いから残業する。それはひとつ仕方がないことでもあるが、それで自分が家ですべきこと、例えば家事・炊事だったり絵を描くことだったり休息を取ることだったり、趣味で気分転換することだったりの時間を削っていいのだろうか?
だらだらと家事をする。それもまた同じように、仕事の向上のための時間を、そして同じようにまた他のことをする時間をけずっているのだ。
単に残業はしないべきだとか、家のことをだらだらやってはいけないだとか、キビキビ動けとかそういうことではないのだ。自分の今の「時間の使い方」が、自分をある種粗末に扱っているようなものではないのか?ということだ。
仕方ないで払っていい犠牲ではないのだ。何かに時間を費やすと言うのは、その限られたリソースを、消極的に消費するということだ。
休息は必要で、時には家でだらだらしたい。動きたくない時もあれば、動きたくても動けない時もある。メンタルの調子、体調も常に良いとは言えず、ここ最近はスキーマ療法のワークでアップダウンもそれなりにあり全体的には快方に向かうとはいえワークの中で嫌な記憶に対峙するときもあるし、反動的に一気に落ちる時もある。
どういう時間の使い方が無駄だとか切り捨てたくはない。自分に甘いくらいで今はいいと自分を許してもいるつもりだ。だが、だらだらすることが、本当に自分のためにはなっていないのならどうだ。うまく言葉にできず、どこからどこがよくて、どこからどこが好ましくないのかをはっきりとは言い表せない。けれど、ずっと今のままじゃ、たぶんいけない。
要はアクセルの踏み方の問題で、心のキャパを超えてアクセルベタ踏みしたら今以上に壊れる。
だからといってノロノロ歩いていたら、本来行ける範囲の場所、というか行きたいと望む場所に、自分を連れていくこともできない。
今自分が無理のない範囲で、ちょっとずつ早歩きしたり、走りたい。そして適切にスピードを緩めたり、時には休みたい。
そう思うのは回復の証か、焦りも多少あるのか。実際のところわからない。
今の仕事をずっと続けるわけではない。だから今の仕事は適当でいいのか?
今は今の仕事をしている。次の仕事はなんかそういうタイミングが来たら考える。それでやっていけるか?
気分が向いた時にちょっとやる。それで、望む方向に変えることはできるか?
私がいま、そしてこれから、この先の人生でやりたいと思っていることは、残念ながら簡単ではないし、私一人で完結もしない。社会と関わる必要があり、人と関わる必要がある。そしてやはり、経験も実力も必要になる。
決して、適当にその場の気分でやっていて、なせることではない。成せるかどうかも、私次第。それは他の人が今まで経験した類の努力で、私はスタートが遅れている。ショートカットはできず、結局周回遅れで走る事実は変えられない。一位になりたいなんて今更言わない。ただ、私が決めたゴールまでは走り抜きたい。マリオカートで順位が確定してレース中断させられる時みたいなのは嫌だ。
今の仕事をする意味を自分で見出したい。
ここに来た今までと、ここにいる自分を、無駄にはしたくない。
離れたら戻ってこないであろう仕事、離れたらもう話すこともないだろう苦手な先輩。
試練だとか綺麗事は言わない。ただ、どうせあと数年いるのならば、その時間をただ浪費するわけにはいかない。無駄だと感じるのならさっさとやめてしまえばいいのだから。やめないのなら、やめないなりに得られるものを必死に探して意地汚く掠め取っていきたい。どうせ私はできた人間じゃない。必死にやって、そんなもんかと笑われようと、そんな人間だ!って開き直って笑ってやろう。