最近思っていること

仕事のモチベーションが消えた。

もちろん危機感も感じている。

その一方で、なんだか納得感もある。

私は、よく、真面目とかしっかりしてるとか言われるが、自分で特別真面目だと思ってはいないし、しっかりしてるかと言われるとあまりしっかりしていないと思う。規範意識や道徳感情は人より強めだとは思うが。
だから、この10年以上、自分が自分じゃない感覚、本当の自分ではない感覚を、うっすらだったりガッツリだったりむらはあれど、ずっと感じていたように思う。

仕事のモチベーションが消えて、頑張ろうと思えなくて、でも一応日々こなして、
その一方で日常の楽しみ方は少しずつ上手になって、人付き合いが思うようにはできなくて(以前よりも)、…っていう今の状態。
この状態が、意外と本来の自分なのかもしれないなと思った。

私が子供で習い事をしていたころ、習い事が嫌いだったけど成績はよかった。
目標を持って頑張ったことが、あまりなかった。(好きなことも嫌いなことも)
無意識に興味のあることとないことを分けていて、なんかふわりふわりと生きていた。

人付き合いも、友達が多い人気者ではなかったが、友達がいないタイプでもなかった。普通。普通だった。私のどこかを面白いと言ってくれる人もいたし、話が合わない人もいた。私は誰かに合わせようとしていなかったし、周りが自分に合わせるべきとも別に思っていなかった。仲のいい友達と喧嘩もした。男子と喧嘩もした。人の好き嫌いはあった。しかしそれなりに上手く付き合っていた。

私が苦しさを感じて生きていた頃、というかまぁ今もだが、
好きなことを好きにできない、自分の感情をうまく出せない代わりに、
そうやって得ていたものはあったのだろう。
今、自分が望むものに気づいて、好きなことを好きなようにやりたいと願って、
そうしたらその分、今まで借りていた力はなくなったんだろう。

まぁ仕事はしないと生きていけないから、そのままでいいとはいえず、努力すべき点でもあるのだけど。
でも今こうして、わりと自分が自分だなぁと思えている不思議。

今の仕事に対して

それと同時に、やはり今の仕事は…と疑問を抱く。
今の仕事の名前を、つまり「美容師」みたいな肩書きに、私はすごく違和感を感じていて、
自ら名乗ることに抵抗がある。便宜上他の職域にそう呼ばれるからそう呼ぶことはするが、
ずっと不思議なくらい、この仕事に違和感がある。
プロだと自信をもっていえないからだろうと思っていた。それは確かにあると思う。
なんていうか、会社の中に、そういう名前の椅子があって、自分がそこに座っている。
多分、そこに違和感があるんじゃないかな。

ケーキ屋さんをやるとして、これはあくまで例なので適当な分類だけど
ケーキを作る人と、ケーキを売る人が必要だとなったとする。
そこに私がケーキを作る人として雇われ、こういうケーキを作ってくださいと言われ、
管理している人から指示があったケーキを、そのレシピに沿ってだったり、
要望に合うケーキを自分で考えたりして、ケーキを焼く。

なんだろうね。それだけなんだけど、こういう立場の時私は自分をパティシエとは呼ばないだろうなっていう。
じゃあ、自分で開業してケーキ屋さんを始めたとして、自分で考えたり作ったケーキを売ったら、パティシエと言えるのか?というと、それもまた自分では呼ばないなと思う。でも、「私はケーキ屋をやってます」って、笑って言えると思う。

「ケーキ屋さんで働いています」と「ケーキ屋さんをやってます」の違い。
すごい感覚的だけど、多分、その部分。
単に組織への帰属意識の問題かもしれないし、自分ごととして考えることができているかどうかの違いかもしれない。
もし、「ケーキ屋さんで働いてます」の状態でも、喜んでケーキを買ってくれる人、お客さんの笑顔を見ていたら、きっと自分の役割を見出して努力できるだろうなと思う。ああ、そう思うと、私の今は、気持ちとしてはケーキ工場で量産しているような気持ちかもしれないな。

私の大切な友達が、ときどき会うと、もっといい仕事ないの?とか、こういう仕事はしないの?っていうニュアンスの言葉をかけてくる。それは今の否定ではなくて、私に対する肯定だと、その話をするたびに感じる。私のことをよく知っている人、そしてその認識が私と違っていない人、そして、私にそういう華やかさを「求めている」わけではないということ。ただただ、私が、笑って生きることを、望んでいるからかけてくれる言葉。
その子は私が髪を切れば、短いほうがいい、とみんなが言っても、え〜ん切っちゃったの〜と、切った髪を悼んでくれるような子で、私はその子のその言葉が嬉しかった。私が髪を切るのは、精神的には自傷のようなものだったから。それを知っているかはわからないけど、悲しんでいる自分が、少し救われていた。

思えば、少しいい大学に進学が決まって、お世話になった中学の先生に話に行った時、
「〇〇大に行くと思った」と、言われた時、あの時も、
言葉としては私の進学先を否定…ではないけど、え?っていう反応だったわけだけど、
あの先生がそう言ったこと、その意味、わかるから、胸がキュッとした。
多分、あなたの考えている「わたし」の方が、本来の私に近かった。(〇〇大に行く実力があるかは別として)

そういう時、私はどこか居心地の悪い気持ちになる。
親がなんでそんな会社に、なんでそんな仕事を、と言った時、悲しみが湧いたり怒りが湧いたりした。
怒りも、結局悲しみだったのだと思う。
その悲しさとこの居心地の悪さは違う。居心地の悪さは、多分「罪悪感」だと思う。
自分に対する嘘、それは私の幸せを願ってくれる人に対して、誠実ではいられないことだから。
そうした大事な人の期待(〇〇になることみたいなことではなく、ただ自分らしくあること)を裏切る罪悪感だったのだと思う。
そしてそれに対して言い訳、というか、弁明をする自分に、また少し嫌悪感を抱いたりした。

たられば

昔から、ちょくちょく考えていたこと。
もし、親が離婚せず一緒に暮らしていたら。父の家にずっと住んでいたら。
そもそも生まれた土地にそのままいたら。きょうだいが暴れなかったら。家族が全員一緒にいたら。
母が病気にならなかったら。先生の支えがなかったら。人の期待に答えようとしなかったら。

全部実際あったことで、なくなったりはしないのだが、
もし、そうだったとしたら。私は進学していたのかな?高卒で就職していたかな?
進路は違ったかな?習い事していたかな?努力していたかな?だらけていたかな?

その答えがなんとなく見えた気がする。
そもそも、今と同じだろうな、と思っていたら、たらればなんていちいち考えないのだ。

多分だけど、進学はしていない。大学に価値を感じていない。
そもそもうちはお金がなく、両親がいたところで進学はそこまで現実的でない。
なんというか、父が見栄を張って学費は出してくれたかもしれないが、私自身が、生活水準的に自然と選択肢から外していたと思う。友達が歯科矯正に100万かかったらしいという話でぶったまげてウチには無理だろうな…と感じたりしていたので、学校にはこだわらなかったと思う。そう思うと、お金がないのに大学進学した自分の当時の異常性を感じる。(もちろん、今の知識や経験、友達との出会い、全て進学したおかげだから、後悔はしていないし感謝している。とてもありがたいことなのだ。)
もしかしたら、先生の言っていた〇〇大にも、行こうとさえしていなかったかもしれない。
でも、その代わりその〇〇大に、近い進路だっただろうと思う。

今の私は、もともとの私を正常とするなら、異常なレベルで人から見た自分を気にしている。
恥ずかしがり屋、内気、内向的で悪い意味でも感受性が高い自分にとって、
人の注目を浴びるのは苦手だし、目立ちたくないという意味で人目を気にすることはあるだろうが
人に立派に思われたい、だなんて、本来無価値な感覚だと思う。

今の自分を否定したいわけでも、しているつもりでもない。
「あ、これ違うな」って思ったというだけの話。

もうすぐ、自分の中で区切りがくる。
身の振り方を考える必要がある。

今がこれだけ、本来いるべき(目指すべき)道とずれているのだ。
今は「考え」ないといけないときだ。