応援してくれるひと

先日とある人に応援してもらった。それがとにかく嬉しかった。

思えば学生時代、私がいまだに心の中で大切にしている言葉をかけてくれた先生の、その言葉は応援の一種だった。

自分を追い込んだり鼓舞する歌をよく聴いた。

それが力になる時ももちろん数えきれないほどあった。

でもそんなふうに頑張ってきて、糸がぷつんと切れてしまった。頑張りたいことがない。したいことなどない。何をしてもつまらない。楽しくない。どうなってもどうでもいい。嫌なことがあって初めて追い込まれるように日々をこなす。

そんな日々だった。それが辛かった。

応援してくれる、わたしを想ってくれる人。それが嬉しかったんだと今わかった。

私が勉強を頑張っていた時、子供の学歴を人に自慢したいとか、いい親としてみられたいとか、生徒の進路を学校の進学実績にするとか、教師として自分の成果につながるとか、そういうのありきで私を応援していた人はいた。

それは言ってしまえば私が勉強をやめたら、失敗したら、変わってしまう応援だった。私を応援しているのではなく、私が何かを成し遂げることを応援していた。

しかし思い返せば何回か、何人か、わたしが何を選ぼうと、「わたし自身」を応援してくれる人がいた。わたしが生きることを、わたしの人生を成就させることを。ある意味、私が何をするか、何を選ぶかにそこまで関心がないのだ。わたしがすることよりも、わたしが感じること、笑っていることを、笑っていられることを、祈ってくれる人たちがいた。そういう人が言う「あなたなら大丈夫」って言葉は、不思議なほど心強かった。

そう言う人の言うがんばれって言葉は、私が何かをするしないではなくて、私の心を応援してくれていた。弱ってる心とか、寂しい心とか、寄り添ってくれる言葉だった。

同じ頑張れと言う言葉でも、突き放すように聞こえる時がある。頑張れ、あきらめるなと。

人の期待を背負って走るのは辛い。頑張れと言う言葉にその人の期待が乗っていて重たい。

ずっと誰かに聞いて欲しかった。私が私の人生を生きるのではなくて、誰かの期待を成就させるために力を注いで身を削った。私は頑張った。でもどれだけ頑張っても人は満足しなかった。そしてわたしが頑張れば頑張るほど、その頑張りは当たり前に変わり、あって当然のものになった。

夢を持てないのは、夢に向かって走ることを期待されるからだ。それはもはや私の夢ではなくなってしまう。

私の人生を、わたしという人間を応援してくれた先生たち、友達、ほんのわずかに交わった名前も知らない優しい人。私はそのために生きたい。私はその中で生きていたい。その人たちが応援してくれた私自身のまま、笑って生きることで恩返しがしたい。いつか会った時に、あなたのおかげだと感謝を伝えたい。

真っ暗な人生の中で、もらった言葉を道標にして進む。いつか笑って、少しでも笑顔で、ちゃんと私として生きていられるように。誰の期待も背負わずに、ただ、私のために、頑張る。