今週末いろいろして、ちょっと嫌だったことといえば題名の通り。
安かったから買ったのだがバキバキだと食べづらいしなんか普通よりもおいしくないのでちょっぴり損した気分。
今週はカメラを持って近所の公園に出かけ、露出計が表示されないとか明るさの調整がうまくできないとか
絞り解放してもぼけない?とか色々試行錯誤をして過ごした。
歩き回って体は疲れ、いつの間にかソファで寝ていた。
何か嫌なことから逃げるようにSNSや動画を見て寝落ちするよりも、こうして疲弊して寝落ちするというのは寝違えたりしんどさもあれど、ある意味健康的だなと思った。
翌朝起きると疲労感といっしょにわずかに充実感も残っていた。
今日は今日とて色々やるべきことがあるのだが、テレビを見ていて印象残ったことをメモとして残す。
ザ・ノンフィクション「塀の前で待つ人」という回で
刑務所から出所した人の社会復帰を事業として進める松浦さんという方の特集。
ご本人も14歳でホスト勤務、その後覚醒剤取引等で逮捕。
生い立ちも背景も違い、想像しても本質的な理解はできないことを自負しつつ
人の見えている部分が全てその人であるとは思えないため
支援対象者の発言にも、(松浦さんの母親の発言にも勝手ながら)疑念を抱きながら見ていた。
言葉に出るということは頭の中に存在はしているが、
必ずしも頭にあることと社会的に正しいと思われることと自分が本当に思っていること
というのは一致するわけじゃないと思った。
外面のいい人や表面だけを繕う人は自分の周りにもいた。
その動機が場当たりの回避だったり精神病によるものだったりは様々だろうが
支援する人はそのあたりもきっと見逃さないのだろうなと思った。
NGOの特集を表面だけ見ると優しく支援しているイメージだがテレビや特集記事を見ると厳しいこともいいながら向き合っているように思う。
NGOでなく事業として行う以上運営のためにもメンタルケアと結果との比重とのバランスがシビアなんじゃないかと感じた。
私も職業訓練を受けけたことがあるが、職業訓練に参加する人の中に
単なる経営不振や自主退職・そもそも無職だった以外の失業事由を想像したことがあるだろうか。
世の中には自分が見えていないことがたくさんあるのだ。
昨日公園で花を見たが、私が知っているのは花屋やインテリアとして並ぶ切り花の状態だけだった。
自生する状態はそれとは全く異なる様子だった。
写真に収めるときも、いわゆる映え、は意識していないにしても、花に対して綺麗であれと要求しているような姿勢に思えた。写真にしろ絵にしろ、被写体の持つものを引き出すのも、自分が表現したいことをそこに投影し表現するのも、自分の感性と技量によるもので、被写体に求めるのは間違っていると思った。
花の見方、美しく見える角度を画一化していたのは自分自身だった。
花の生態を見たときに植物が「生き物」であり、地域に根付いたり環境に適応したりしながら生きているのを美しく感じたとき、自分のちっぽけさを再認識した。
自分が普通を目指すのは、人の評価を気にするのは、その外にあるすべてを切り捨てているようなものだ。
そんなにつまらなくて息苦しいことがあるだろうか。
自分にできることは少なく、人に劣っているところは有り余るほどある。
しかしそれを克服して普通だったり優れている人間になったとして
その人生に価値はあるのだろうか。