数十年生きてみるとトリセツも作れるようになる

最近やっと自分に対する認識と感覚が一致してきた気がする。
子どもの頃の自分のようになったかというと近からず遠からず。
過去の記事で昔の自分と今の自分は地続きか?と問うたが、
今の自分の感覚で答えてみるならば地続きではない。
ただやはり同じ人間ではある。
細胞が生まれ変わったり神経回路が変わったりするような感じで
自分は外からの刺激に反応して、生きるためだったり自衛のためだったり
興味関心や成長願望だったりで、常に内部で変容し組みかわっていると思う。

同じ糸でつながっているのではなく数えきれないほどの糸が切れたり新しく伸びたり結びついたりしながら「最低でもどれか一つは常に切れずに伸びている」状態が絶えず続いて、昨日の自分と今日の自分はほぼ同じだけど、数年前の自分と今の自分は十数パーセントくらいは違うのだと思う。

何年も悩み続けていたことを、悩み続けたことでほんの少しうまく扱うコツを身に着けた。
忘れ物が多いこと、でも区画を決めると想像以上にちゃんと戻すようになったこと。
聴覚よりも視覚で認識するのが得意なこと。
時間の感覚が人と違うこと。25分くらいで区切ると興味がそれほどないことも脱線せず同じ事を集中して続けられること。
カウントアップよりカウントダウンのほうがペース配分しやすいこと。
人と通じ合うことに喜びを感じること。楽しさより日頃知的体験に惹かれて生きていること。
悲しいことを悲しむことが長らくできていなかったこと。今やっとできるようになったこと。
自分はこうだと思っている姿が、そうではなかったと知ることが未だにしょっちゅうあること。

今の自分のことを好きかというと好きとは言えないのだが、
自分の感性は嫌いじゃないなと思う。
自分がいいと思うものはやはり絶対的な良さがあって、私がどれだけ価値のない人間だと自分を卑下しても
そんな自分がいいと感じる、モノに対する感覚だけは否定することができない。

公園で風を浴びるのが気持ちがいいとか
舗装された道路を歩くのが好きだとか、森を歩く音が好きだとか
雨上がりの匂いを感じたり他所の家の夕飯の匂いにうらやましさを覚えたり
子供を肩車する父親や駅に車で迎えに来る親、それを当然のように受け入れる子供を見て苦しくなったり
誰かの言えない気持ちを想像して胸が締め付けられたりするとき
何かを感じる自分だけは否定したくない。

立派な人間ではないし、才能があるわけでも特別でもない。
だけどそれでいい。それがいい。