『いくつになっても恥をかける人になる 』読み終わった。
Kindleのハイライト機能したところ。(の要約)
- 「クリエイティブである」ということは、今までと違う状態のこと
- 著者の本業である広告業界では、商品ごとにどういうCMや広告が効果的か変わり、仕事に明確な正解は存在しない。さらに今までの自分の経験や価値観や趣味嗜好が反映されるし、企画を通して必然的に自分をさらけ出すことになる。選ばれた1案の裏にも、数多くの選ばれなかった恥がある。
- 周りの人と違うのは、恥ではなく価値になりえる
- 無意識に「尊敬されよう」としているのが恥の原因の一つ。尊敬される人になろうとして足りないところに目を向けるのではなく、自分をさらけ出して応援される人になろう。例えばセミナーで素直に質問することは、ほかの質問できなかった人のためにもなる。
- 尊敬される人をめざす=「理想の自分」が起点になっている状態
- 応援される人は等身大の今の自分
- コンプレックスは隠すからコンプレックスになる。コンプレックスを見せると、それはチャームポイントになる。劣等感情はその人の性格や価値観を形作っている。
- マウンティングされたと感じたり、自分より知識がある人の前で気が引けてしまうのは、自分が人を見る目が「あの人全然知識ないのに」という風にマウンティングの視点になっているから。自分自信の恥の感じ方を変えるには、自分の意識から変えていく必要がある。
- 自分が選ばれる対象として待つのではなく、自分自信が選択する主体という意識を持つこと。他人の評価は自分の価値ではない。職場の評価は会社にとって役に立つかどうか。SNSではその情報が人の役に立つかどうか。といった風に、評価は組織や環境で変わる。行動の選択権は自分自身にある。
- 自信とは自分を過信することではなく、自分をあきらめないこと。
- 始められない=「やればできる」という可能性を残しておきたい
- 続かない=目標が高すぎるので、まだ過程にいるうちから「できなかった」と区切りをつけ、高い基準に達しない自分を恥じている
- 無理に「自己肯定」する必要はない。ダメなところもまぁいっかと受け入れられる肯定的な諦め「自己受容」ができれば恥を克服できる。
- 「まだ準備ができていないから始められない」→素人に完璧な準備などできない。やってみて初めて必要なものがわかる。準備と本番は地続き。やってみてから向上させるほうに舵をきるのが吉。
- 恥の体験がトラウマになっている人は、自分に手紙を書いてみるといい。
- 自分の強みは外から見ないとわからない。周りの人より少ない苦労で周囲に感謝されることはないか?がヒント。また、探して見つかるものではなく、自分で作るもの。今すでにできることでなくてもいい。
- 「その道のプロ」とは間違えない人ではなく、その領域でだれよりも恥をかいてきた人のこと。
たくさん。どれもかなり納得がいった。
著者と仕事は違えど、何かを作り出す人間として著者の体験談・実践談もすごく参考になった。
クリエイティブ業界ではないとはいえ仕事に向き合う姿勢は自分の仕事にも通じるところがあるし、
そうやって行動していくことが、挑戦することが恥の克服だったり、後々の自分の助けにもなるんだなって。
で、2つ前のブログに書いた私の恥。
人と違うことをするのが恥ずかしい。
人が当たり前にできる・していることを、自分ができないのが恥ずかしい。
仲間外れにされたり孤立するのが恥ずかしい。
自分の悪い部分やダメな部分を人に見つけられてしまうのが恥ずかしい。
ぼろが出るのが恥ずかしい。うまくできないことが恥ずかしい。
考えている内容が恥ずかしい。気にしていること自体が恥ずかしい。
挙げたらいくつでもでてきそう。自信とは真逆のところにいる。
ときどき、恥をさらしてでも自分が正しいと思ったことやしたいことをしようって思えているんだけど
それがいとも簡単に揺らいでしまうので、その場にうずくまって消えたくなる。自分が悩んでいることを、そんなこと、と一蹴されるのがつらい。
どうしたらいいかわからない、困っているときに、いいからやれと後ろから蹴られる(※例え)のがこわい。
前から敵がきたとき、後ろに安全な場所がない。戻る場所も避難できる場所もない。
ただうしろ指をさされ、笑われるだけ。そういうイメージがこびりついている。自信が欲しい。自分がいちいち恥ずかしくならない、自分に対する明確な像がほしい。
私はやっぱり、多くの人が感じる気まずさや恥の他に、
もともとの性格(おとなしく人前に出たがらない恥ずかしがり屋)に加えて、
過去の出来事で「欠陥・恥スキーマ」が形成されていると思う。
なおかつ、恥を「隠す」方向にものすごい力を入れてしまうのは、
「見捨てられスキーマ」「愛されない・わかってもらえないスキーマ」が働いていると思う。
そして「感情抑制スキーマ」もそことつながっているのかな。
あと、発達障害といえるほどではなくても、できることに凹凸があって、
その凹の部分を指摘されることが本当に怖く感じるから、
凹を隠すことばかり気が向いていて、磨けば凸になりえる自分らしさも押し込めている節もある。
最近忘れ物や時間管理の苦手さが壊滅的だと気づいたけれど、
その努力してもどうにもならず、指摘され批判されても言い訳の余地もないとわかってはいるのに
自分ではどうにもできないという心理的な逃げ道のなさ、が苦しいのかもしれない。
あとそもそもの安全基地のなさもある。
持っているスキーマが相互にかかわりあって、
「いい面を見てくれている人も、自分のこんな一面を見たら見放してしまう」
「せっかく信頼や評価してくれているのに、うまくできず期待を裏切るような結果になってしまう」
「『お前にはこんなダメなところがあるくせに偉そうに』と思われてしまう」
「『やるべきこともできていないくせに好きなことだけ楽しそうにしやがって』と思われてしまう」
そういう恐れが大きいかもしれない。
「欠陥・恥スキーマ」と、「感情抑制スキーマ」が自分の中ではかなり影響力の強いスキーマで、
その一端に、そういう、自分の絶対的な弱点が曝されることへの恐怖があるのかも。
友達でも先輩でも上司でも先生でも親でも、ほめてもらうとその反面で期待に沿えなかった場合への恐怖がおこる。
この人が自分のそばにいるのは、その人のほめてくれたいい面があるからで、維持ができなかったら離れる可能性や別の面で見放される可能性を同時に考えてしまう。
「〇〇ちゃんておもしろい」のように私に形容詞をつけてほめられたときは特にそう思う気がする。
付き合いの長い人は、「一緒にいると楽しい」「好き」「安心する」と相手主体で言ってくれる人も多い。(ありがたい)
思えば、私が何か作るのが好きなのは自分のためでもあるけどもう一つ、ほめられたいからじゃなくて、相手に喜んでほしいからだ…。
私は感情を出して、好きなものを作ったり自分らしくクリエイティブに生きていたいけど
それをするには恥もつきもので、恥に対して私は弱い。
もっと、長い時間をかけて向き合っていかないと根本的な原因やきっかけとなった出来事はわからないけれど、
自分には人よりも凹凸があること、
凹の部分は長らく改善しようと頑張ってきたけど、自分の性質的に難しいかもしれないこと。
(でも、自分に合った仕組みさえ作れれば、ある程度よくできそうでもあること)
その代わりともいえる、いい面もあること。そしてそれはこれから伸ばすこともできること。
それがわかっていれば、この先すこしいい方向に進められるかもしれない。
感情抑制と恥。
自分のいいところは、感情や価値観をさらけ出さないと多分、発揮できないと思う。
だからできる範囲で「迷ったら恥ずかしいほうを選ぶ」を実践したり、
できないことは人にも素直にさらけ出す。
簡単に言える割に難しいことだけど、
「私はこんなこともできないダメ人間だ」と考えている今の状態を、
「私はこれがどうしてもできない。でも、こんなことができる」と
言えるようになったなら、今より格段に生きやすくなると思う。
完璧になりたかった。でも完璧にはなれない。
自分にできること、自分の強みをもっと育てていきたい。