これ、20件目の投稿です。
大人になってからブログって長続きしなかったからうれしい。
変に肩に力入ってしまって、意味のないことを書けなくなっていた。
今や意味のないこと書きまくり。個人的にはそれがすごくうれしい。
こないだお風呂に入っていて心の奥から湧いてきた言葉。
「置いていかないで」「一人にしないで」
なんか、いつか母も愛犬もいなくなってしまうんだなぁって思うとふいに悲しくなる。
スキーマ療法、というかそのお膳立てで出てきたマインドフルネスを実践して、
この気持ちも消そうとはせずにただただ出てくるままに味わった。
私はどうしてもその理由はこうだとか、ジャッジしてしまうところがあるので難しい。
思い出したらまた涙が出てきた。
不思議だ。
前から、親がいなくなった後のこと、愛犬が虹の橋を渡ったあとのこと、
考えて悲しくなることはあった。
だから、だからこそ後悔しないように今を一緒に楽しもうとか
自分にできることややりたいことはして置こうって思ってた。
でも、それで心が軽くなることもなく、なんの慰めにもなっていない。
そんな自分になんて言ってあげたらいいんだろう。
なんて言ってほしいんだろう。
どこにもいかないよって安心させる言葉は、言ってもらえなかったなぁ。
そう思うと、誰かが自分を見てくれているときに、いい所見せようとしたり
かまってもらえるときにかまってもらおうとしたり、
そういう面もあったのかな。
あんまり、他人の気を引こうとする。っていうことはしてこなかった。
学生時代、家庭環境複雑な子が周りに多かったけれど、
ぐれたり荒れたりする人が多い中で自分はそうできなかった。
したい気持ちはあった。だけどできなかった。
心配かけたくないって思いだと思ってたけど、そうじゃないのかもなぁ。
その代わり相手がこちらを見てくれているときにすかさず駆け寄るみたいな、そういう子供だった気がする。
で、自分に関心を向けていてくれた人が、自分以外の人に関心を向けるようになると、すごく傷ついていた。
関心を向けてくれる人がいると、もっと褒めてもらおうと必死に頑張った。
自分と近い立場で優秀な人が現れると、自分はダメだ、ぼろが出る、とかそういう気持ちに襲われた。
そういう悲しみが心の奥底にあって、そういう行動をとるから満たされない気持ちもどんどん積もっていって
私ってもしかするととんでもなく重いタイプの人間かもしれないな。
「置いていかないで、一人にしないで」って泣いている小さな自分にかけてあげられる言葉は今の私には見つからない。
でも、人に背を向けられて傷ついて、自分のタイミングで甘えることが許されないから
相手の顔色を窺って、相手の気分に合わせて自分の行動を変えてきたのなら、
「失敗しても大丈夫だよ」
「頑張ってるところ、ちゃんと見てるよ」
「ちゃんと見てるし、いつだってあなたとちゃんと向き合うよ」
「話したいことがあったら話してごらん」
って言ってあげたい。
必要とされることがうれしいということもなく、必要とされている間だけの関係だと思うのが、
いつか自分なんか見捨ててみんないなくなると思ってるのは、
そういう、人の態度の違いを見てきたからかもしれないなぁ。
なんか、すごく腑に落ちてしまった。
両親と私の間にあるものって、なんなんだろう。
「自分の子供なんだからかわいいに決まってる」ってよく聞く言葉だけど、
自分の子供だからかわいいというのは、自己愛の延長でしかないと思うのはおかしいだろうか。
私という個人を尊重してもらったという感覚がない。
というか、自分の子供だからかわいいとさえ思っているのかもわからない。
両親にとっては私も学歴みたいな、子供自体がステータスみたいなものなんじゃないのかなって思ってる。
だから、私がうまく生きていないと、両親のステータスも下がるみたいな。
ばかばかしいけど、そういう風に思ってしまう。
実家に帰省するたびに、母は嬉しそうにするけれど、
その嬉しそうな姿に、私は虚しくなるのはなんでだろう。
「今は」私が必要なんだなって、私の「役割」が求められてるんだなって
そう思うから、悲しくなるんだよ。