子供向けの夢を叶える目標の立て方的な本を流し見している。
スプレッドシートにやりたいことを書いて優先順位をつけている。
そうしながら気づく、私の目標はどこかありきたりな感じがする。
こういう仕事がしたい。という裏には
この職業で立派な〇〇さんはこういう仕事をしているから、〇〇ができるような立派な人になりたい。
という思考が隠れている。
それしか目標として想像できるものがないのだ。
子供向けの夢の本には野球の大谷選手が立てた目標だったり
著名人がいかに具体的な目標を立てていたかという例が挙がるが、
その目標は、目標でもあり夢であったのではないだろうか。
目標には達成や未達成(失敗・挫折)の概念がある。
夢は叶うか途絶えるかではあるが、明確な「失敗」はない。
夢は叶うか叶わないかそれ自体が成否を問うものではない。
夢を見続ければそれはずっと「まだ叶っていない」だけで失敗ではない。
目標は必ず結果が出る。
夢があり、その夢を叶えるために地に足のついた目標を立てて進むのではないか。
私は目標ばかり立てていた。ずっと夢がなかった。
そして何をするにも失敗がつきまとった。そして簡単に心が折れた。
夢がないから目標が失敗に終わればそれはそのまま「失敗」として処理された。
失敗ばかりが積み重なって、できないことばかり増えていった。
スプレッドシートにやりたいことを書こうとした。
実はいくらか前から目標の洗い出しはしようとしていた。しかしなかなか進まなかった。
なぜかそこに違和感を覚えたからだ。
とってつけたような目標で、達成したいかどうかではなく「達成しなければいけない」目標だった。
失敗すれば失敗者の烙印を押すことになる。取り組みたくない。
手頃な目標を立てようとする。するとどんどん自分の気持ちからも遠ざかる。
一般的に良いとされる方法や、そのルートしか見なくなる。興味も何もない。
学校に行って勉強しろと言われるような気持ちで自分自身が立てた目標に向き合うことになる。
夢がないままに目標を立てるのは間違いだった。
叶う可能性がそれなりにあることしか望まないようにしていた。
どこか「どうせ自分はこんなもんだろう」と決めつけた。
自分の可能性は自分で狭めた。自分を世の中の尺度でだけ測った。
欲しいものを欲しいと思うのは悪いことだろうか。
年相応、分相応の夢でないと恥ずかしいだろうか。
恥ずかしい夢なら、持たない方がましなんだろうか。
夢という言葉がどこか嫌いだった。
平和で恵まれた人間が掲げるものだと思っていた。
愛とか夢とか希望とか、耳触りのいい言葉を軽く口にする人が嫌いだった。
しかし「夢は叶うよ」という言葉は、実は希望を捨てるな、自分を諦めるなという励ましだったのかもしれない。
私の夢はなんだろうか。誰も笑わず、何も怖がる必要がないとしたら、私は夢を描けるだろうか。
周りの人たちにしあわせでいてほしい。
自分も幸せになりたい。
自分にとっての幸せとはなんだろうか。
自分の気持ちを表現したい。
面白いと思ったものを面白いと言いたい。
そうして人と分かち合いたい。
自分自身のまま、人と繋がりたい。
いろんなものを味わい、感じたい。
自分の感性を大事にしたい。
大きな絵が描きたい。
綺麗なものや面白いものは自分の手で再現して身近に置きたい。
大事な記憶を残しておきたい。
綺麗なものをたくさん見たい。
ときめくものをずっと見ていたい。
私の夢。
私の夢は…自分のままで生きること。
信念に沿った行動をすること。自分や人のためにやりたいことや
やるべきだと思ったことを躊躇わずやること。
企業の企画やイラストレーターやデザイン、住宅メーカー勤務や建築士
肩書きを夢にするのは違う気がする。
と、言いながら、一つだけ肩書きがよぎった。
漫画家は、ずっと私にとってきらきら眩しい星のような存在だ。
漫画家にはなれるとおもっていない。
でもたとえば今までの社会的地位や家族や自分の生活全てを台無しにしてでも
努力をしたら、0.01%くらいは叶う可能性がある。
それは実質叶わないと同義だが、「絶対に叶わない」とは言わないのは
絶対に叶わないとはなぜか言えない気持ちがあるから。
だからと言って漫画家が夢ですというのもちょっと違う気はするが、
夢の手掛かりになりそうだ。