少しずつ見えてきたもの

このブログを始めてしばらく経った。
最近更新頻度は下がっているけれど、それはそのまま、
書かなくてもいられる時間が増えたとも言えるし
ここ以外に感情を表現できる場所が増えてきたとも言える。

スキーマ療法と、自分の人生と向き合う決意。
それによって、自分の中で大きく変わってきたなと思うことがいくつかある

自分の居場所を自分で作ることができた

自分の住んでいる家。好きなものを集めて、いらないものを処分する。
自分自身がこの場所で生きていくと決める。そういうひとつひとつ、
一人暮らしの拠点が定まったことで、安心感が芽生えてきた。
今まで、自分の居場所と言える居場所はなかった。
いつ追い出されるか、いつ権利がなくなるか、いつ見放されるか。
そういう漠然とした不安を抱えて生きていた。
年齢でみれば平均より質素な家に住んでいると思う。
でもそれを自分に許容した。私は設備も家賃も立地も気に入っている。人を羨むことはない。
私を追いやるものがあるとすれば、大家さんの事情か、災害という私にとって不可避で、
そして私のせいではないもの。

自分のことをケアするのが上手になった

ケア(Care)とキュア(Cure)って、違うらしい。
私は今まで対症療法的に自分のことをしてきたが、今はケア、予防ができるようになった。
自分が蔑められたり、自分の感情を抑圧したり、それによる苦しみを取り除こうとしていた。そして何度も繰り返していた。
それが、そもそも自分を蔑むような人や環境と距離を置いたり、自分の感情を出したり、どこかで別の形に発散することができるようになってきた。
人間関係がわずかに変わってきているし、大きく失ったようで実は大事なものを得ていると感じる。

何かになろうとしなくなった

これが自分の中では特に大きい変化に感じている。色々なことで悩んだ末に、もう何かになろうとするのはやめよう。とあくまで自分で決意したことに起因する。
職業に対する肩書き。役職。痩せているとか美しいとか健康とかいうなんらかの状態。
優しいとか意地悪とかいう性質。上手い下手という能力。
色々なものに対して、形を決めることをやめた。私をそういう型に押し込んで、はみ出る部分を切り落とすことをやめた。イメージ的には鋳造をやめて塑造するような感じ。
盛り付けて、形をつくる。その過程で、削ぎ落とすものもある。
自分を自分のまま肉付けしていき、形作る過程で「(環境に)削り落とされる」のではなく、
「(自ら)削り落とす」という能動的なイメージだ。

自分の変化というのは望ましいものと望ましくないもの徒に分かれている感覚があった。
それが今は、自分は常に変わるもので変われる可能性を秘めていると思う。
別の何かになるのではなく、変容していくもの、と思えている。

「自己肯定感を持とう」「ポジティブに考えよう」なんて言われても、実行するのは難しい。
中学生の頃から何度も言われてきたし、その度にそんな簡単にできたら困ってないと、なんとも言えない気持ちになってきた。
長年生きてきてこの自己肯定感やらポジティブやらのコツのひとつに、これがあると思った。
何かになろうとしない。その何かは先にあげた肩書きだったり、時には勲章だったりするのだが
その肩書きがある自分に誇りを持ってしまうとその肩書きがなくなったり揺らぐと崩れてしまうが
自分の中のその部分を誇りを持つことは、なくなる時も受け入れる姿勢が含まれているように思う。

その他

その他で雑にまとめてしまうが、浮き沈みの頻度が減ってきた。
イライラした時、イライラしているなと自覚を持っているので、アンコントローラブルな感情に振り回されることが減った。
上にあげた変化によって、自分の好きなことが増えたし、料理や生活のささやかな側面に喜びを感じられるようになってきた。上手に根を張って基礎を築けたと思う。

今後はもしかしたら更新頻度が減るかもしれないがブログは引き続き続けていく予定。
(果たしてクローラー以外に閲覧者がいるのかもわからないけれど)