師走なので、少しずつ心の大掃除

ブログの更新ペースが落ち着いてきました。
一時それでまた感情キャパオーバーしてしんどくなってたが、
それもまた落ち着き、今は割とフラット。平穏に近い。

いつもは気分が落ち込んだり荒れたり、気づきがあった時に更新しているけれど
たまにはこう言う時の気持ちも書き残しておこうかと。12月だしね。

ブログの更新を始めてまだ一年未満。
今年はどんな年だったかをブログ記事で簡単に振り返れるのは嬉しい。
私は写真をあんまり残さないし、そもそも出かけないので、形に見えるものよりも、
内面の記録としてのブログのほうが、まざまざと思い出せていい。

やっぱりスキーマ療法にであった、というか自分で進めるワークとして始めたこと、これが一番大きいと思う。自分の気持ちに向き合う内向型気質ではあったし、カウンセリングも通ってたけど対症療法的で。
自分の生きづらさってどこからくるんだろう。なんでこんなにいつも不安で悲しいんだろう、という
仕事の失敗や人間関係の不和といった特定の出来事には、起因しない感情に気づくことができた。

そしてカウンセリングにおいても、先生との相性もよく話を聞いてもらえるのは嬉しいけど、治療の側面として手応えがないと言うか、いや悪いことではないけどいつこの暗闇から抜け出せるんだろうっていう、ゴールの見えなさが苦しくもあった。それが、スキーマ療法ワーク(ワーク自体は基本自分がやっていてクリニックは介在しない)で気づいたことやより具体的な現実の問題(こういうことがあった、と言う話)を聞いてもらって、そこからスキーマを手放す手助け、自信や自己肯定感を育てる手助けをしてもらっている感覚。

私は友達が少ないし、そうでなくてもスキーマの影響もあってあまり内面を人に見せないので、
「私のことを長く知っていて、「ひとつのエピソードで人格を断定しない、善悪を判断しない人(ある程度の関係性があり、なおかつ中立的な人)」に聞いてもらえる場所がある、というのは大きい。
学生時代は保健室の先生の力を借りていた。今はそれがカウンセラーの先生との関係に近いのだと思う。

主に自分の対人関係の傾向に気づいた。
人と親密になりたいと願う一方拒絶されることに酷いおびえがある。
自分と向き合ってくれる人はいない、優秀であったり相手に利益を提供できないと自分は人から気にかけられることはない、見捨てられたり孤立する。自分は人が当たり前にできることができない。それは自分のせいだ。と、そう言う感じの。そして、無意識的にほぼ全ての人を信頼していない、
スキーマ療法による気づきを出発点に、ハッピースキーマを作ったりしつつ、
親との関係性を見直して、離れたり距離を取る、問題を引き受けないように心がける、
自分の考え方の癖を見直す、自分の気持ちをキャッチしてなるべく実現してあげる。
そういう小さいことを積み重ねて、それでもまだ苦しい日々は続いているけれども、
「1年前の自分」と比べたら、きっと相当に私は私らしさを取り戻している。

他にも、少しずつ続けてきたことが、続けたことによって目に見える形にもなっている。
仕事も嫌なことがあっても続けている。お金はそんなにないが、今すぐ無職になってもとりあえず生きる程度のことはできる。それは微々たる貯金と、今職場を探す気力があるかといった心の状態を含めてだが。

ブログを書く前は、宛名のないメール、というWebサイトをよく使っていた。
あの頃、私は苦しさの根っこがわからず、目の前にあることにただ打ちのめされていた。
今でこそ、「人と親密になりたいのに拒絶が怖いことでアクセルとブレーキを同時にベタ踏みしている状態がつらい」「ダメな自分やできない自分を人に見られたら生きていけないと感じている。息苦しい」といえるけれど、あの頃は「仕事も恋愛もお金も家族関係も同年代のようにできない自分はなんてだめなんだ」「好きだといえることでさえ頑張れない、何も生み出せない」という表層しか見えず、自分の幸せとは無関係の、人から見て恥ずかしくない自分になるための努力をしていた、自分に課していた。

最近、自分の暮らしを豊かにすることが、いいことだと思える。
インスタにあげるでもなく、ただ自分が味わうだけの生活。
自炊してご飯が美味しいとか、ちょっと高い食材だけど買ってみて香りを味わうとか、
お風呂上がりにリラックスできる環境を整えるとか。
絵の具を触ったり粘土をこねたりするのもそう。

年末年始や年明け、母以外の家族は何か楽しいイベントの予定があるようで、
母がなんだか羨ましそうにしていた。
昨年は自発的にボーナスでちょっと奮発したギフトというか、みんなで食べる用のものを買ったが、
今年は、母から今年はどうする?と言われてしまい、これを毎年やるのかなと少しプレッシャーだった。
別にいいのだ、食べたいと言われるのなら。そして買うのも、別にいいはいいのだ。
このモヤモヤは関係の非対称性だとか、いくらそう言うのを頑張っても、結局その状態を維持しないと不幸そうな母を見るたびに感じる自分に対しての無力感だとか、そういうところから生まれるのだと思う。
母が羨ましそう(自分は何も予定がない、家族ばっかり羨ましい)にしているのを、
私は「家族ばっかりずるい、私に対してもなにかしてくれてもいいじゃないか」というメッセージまで受け取っている。正直母の心のうちはわからない。少なくとも私は、そこに罪悪感を覚えている。

だから先日も、せめてクリスマスの予定を立てるとか、みんなの年末年始に1~2万円でもカニだとかお肉だとかおせちだとか買ったり、そうでなくても家財の買い替えなり母にお金を渡すなどして、母の何かしらの年末年始というイベントの演出を、しようとしていた。それを、いったん、踏みとどまった。
振り返ると私は昨年から今年、言葉通り泣きながら一生懸命働いたが、ボーナスは母のために使い、貯金はほぼ増えなかった。自分のお金を家族に使ったことに、後悔はない。後悔はないが、自己犠牲ではあった。私の心に、少し穴があいた。後悔しないことと、悲しみを感じることは、両立すると思う。

そう、自分のお金を出して家族で楽しい時間を過ごすことは、良いと思う。お金を出すのが、家族の誰だろうと、自分だろうと、そこはそんなに関係ない。ただ、自己犠牲の念が同時にあるのなら、これを続けるのは自分のためにならないんだろうな、と思う。実際、私自身が年末楽しかったか?といえば、NOではないがYESというにはためらいがある。楽しかった、に「でも」が続く。
楽しかった。でも疲れた。
楽しかった。でも悲しかった。
楽しかった。でも涙が出た。
楽しかった。喜んでもらえたから。「私自身」は喜んではいなかった。

これは誰かを責めたいわけではない。家族や自分に問題があるのではなく、家族と自分の間にある関係に問題があるのだと思う。
私は多分、お金を肩代わりしたり払うときの願いがある。お金を気にせず生活して欲しいとか、気負って欲しくないとか、幸せになって欲しいと願っている。でも、いつも、それは叶わない。
人は自分の思うようにはならない。だからこそこの願いは自分のエゴだともわかっている。
だから、だから。
このような関係を、私が自分を苦しめて叶わない願いを持ち続けることを、
今年、来年、この先、ずっと続けていくのか。と自問自答して、もうやめようかと思っている。

冷たい人間だと思われるだろうか。去年はあったのにと、気分屋だと思われるのだろうか。
けちだとか言われるのか。そういう恐怖がある。

でも、今は自分を第一にしたい。
貯金だってしたいし、引っ越しだってしたい。
何か家族に病気や怪我、その他問題が起こったときにもお金は必要なのだ。貯金はそういうときの備えにもなる。

話はまた変わって、仕事方面。
仕事は「当たり前を疑え」という感じの状況になっている。
自分が自分の価値観を持つこと、信念を貫くことが必要な時期なのだと感じている。
そして最近思っているのは、私に対する評価は評価者によって変わるということ。
そして、今の上司や評価者が、絶対的に正しいわけではないと、理解する必要がある。
別に何か問題が生じているわけじゃないし、評価が不服とかではない。
ただ、「誰かに評価されること」というのは、その相手の評価軸に沿うかどうかであって
他の会社で通用するものとは限らないし、自分の信念とぶつかるときに、相手が正しいとは限らない。
私は、ずっと母の価値観を軸に生きてきた。誰かの期待にはなるべく応えたい、という性格面もあるし、誰かと価値観をともにして肯定されたい(否定される状態を避けたい)、安心を得たいというよわさもある。
仕事に関する状況は、日々変わっていく。自分の仕事も変わるし周囲の人間も、人間関係も変わる。
年齢的にも、そう簡単に転職を選べない。この先、どうなるか。どうするか。それは仕事だけじゃなく、私の生活そのものに関わることだと、最近強く感じている。

最近、某作家さん?がサイン会を開催して楽しかったけれど病んでしまった的なnoteを読んだが、
その中で出てくるお医者さんいわく、趣味・好きなことをするのでは疲労回復はできず、お風呂に浸かったり散歩したり、ぼーっと何も考えずにできることをして過ごすのが必要らしい。
それを読んで、今は趣味も、気が向いた時でいいか。と思うことにした。
焦る気持ちはあるけれども、自分に多くを求めるのはやめる。

来年、縁切り神社に行こうと思う。別に特定の誰かと縁を切りたいわけじゃないが、
スキーマ療法の成就を祈って、過去との縁を切ろうと思う。この先、前を向いて生きていけるように。