最近よく頭の中で使うワード。
夜型の生活を朝型にシフトしよう。
自炊の割合を増やそう。
持っている服を活用しよう。
今の仕事でプロになろう。
そういう、何かを始めようというとき、計画して実際やってみてから調整することを、自分の中ではチューニングと呼んでる。
自分にこのやり方はあってるか?これって本当に自分が望んでいることか?
そういうことを問いかけて、自分の行動を見直すことが増えた。
前の自分は、
・やってること
・やらないといけない(と思っている)こと
・やりたい(はずだと思っている)こと
・本当に望んでいること
がすごくズレていたと思う。いろんなことが頭や心のなかでごちゃごちゃ混ざって苦しかった。
それが、今はそれぞれをきちんと聴き分けられるようになってきたと思う。
ああ、こう思ってるんだなぁ。ああ、ちょっと失敗だったなぁ。もっとこうしたいなぁ。
今までは、まるで数日前の自分を他人に感じるくらい、自分の行動や思考が理解できないことがあった。
全部、一人の人間に統合されたような感じがする。
月末にカウンセリングがある。今月は聞いてほしいことがたくさんあるなぁ。
過去の記憶を辿る旅。過去と向き合う旅。自分を取り戻す旅。
この前実家に帰ったとき家族写真をみて「もう十分だ」と感じたけれど、
それから数日後、母が父のことを名前(あだ名)で呼んでいた記憶がぼんやり蘇った。
相変わらず会話の内容は一つも思い出せないが、確かに母は父を〇〇ちゃん、と呼んでいた。
ふつうの父親と母親がどういう会話をするのか、私には想像ができない。
私の父と母の会話も、ほんのひとつも浮かばない。思い出せない。
だけど、その呼び方を思い出しただけでどうしようもないくらいうれしかった。
私の知っている母が母のすべてではない。父もそう。
私は不仲の両親しか知らないが、かつては2人で仲良く過ごしていた時期があった。
だからこそ家族になったのだから。
母にとって恋愛の失敗の証明、後悔の結晶。
別居、離婚をしていく中で負担となる存在。新しい恋愛の足を引っ張るお荷物。
そういう風に、自分の存在にどこか罪悪感があったが、少し救われた気もした。
多分大事にはされていた。
でも、大事にされていたという感覚は得られずに育った。
こうして書いているだけでまた涙がぼろぼろ出てきてしまった。
「悲しい」と頭で思うより先に涙が出る。
急に雨が降り始めたみたいな感覚。
雨は自分の力で止められないから、止むまで待つよ。
隠れて泣いてる子供の自分がいるなら、追い出すことも引っ張り出すこともしない。
少しずつ安心して出てきてくれるといいなって、大人になった自分だからこそ思う。