昨日、今日と服の整理をしてた。
最近大きな出費が続いたので、着ない服を買う、買った服を着ないことがもったいないと感じたから。
服を管理するアプリを入れてみて、服の写真を全部撮って登録した。
それなりに手間がかかるので、それと同時に登録せず捨てる服も洗い出した。
大人になると、昔ほど流行りや世代に服が左右されなくなって、服を捨てることが減った。
判断基準はその服が着られる状態か、着られない状態か?になった。
そのため、服がたくさんあっても着たい服を着ているとは限らず、好みではなくなった服を着られるから仕方なく着るという日もしばしばあった。むしろ、そういう日がほとんどだったかもしれない。
それが少し引っかかっていたのもあり、いわゆる着られるけれど、「ときめかない服」は捨てることにした。
そして、買ったけど来ていない服も、少しくらい着てから処分しようという考えになった。
(私はものぐさなので、着ない服をメルカリで売るようななマメさはない)
そして、服の整理から、クローゼットの整理、ひいては部屋の片づけに広がり、本棚の整理にも乗り出した。
若いころから、美術の勉強をしたいと思って本を買っては、まともにやらずに増えていくばかりだった。
やらなかった理由は怠惰をはじめいろいろあるが、こちらは「ときめかない本」というのはほぼなく、どれもいつか勉強したい・やりたい本ばかり。
しかし、今の生活でしっかり時間を取って勉強できることは少ない。
今の職業では仕事にかかわる学習も必須で、スキルの低い私にとってはやるべきことも多い。
自分の興味だけで、あれこれ手を出してもしょうがない。息抜きになればいいものの、趣味とも少し心持ちが違う。
部屋は自分の現在の心の状態を表すと思うが、本棚は自分の思考の状態を表していると思う。
あれこれ手を伸ばしてはどれも中途半端に投げ出す。やりたいこともやるべきこともあって何をすればいいかわからない。
好きだからと学び始めれば他にもっとやることがあるだろうと自分を責める自分がいる。
服も、本も、買ったときは何か惹かれるものがあったとしても、それが今の自分に必要かどうかはまた別だと思う。
何年も着ていない服は、おそらくこの先も着ないし、何年も積読になっている本を読み進めることなく新しい本を買ってしまう。
例えば社会人になって一人暮らしを始めるとき、荷造りと実家の荷物の整理をすると思う。
その時に、学生時代の制服や教科書、昔読んでいた雑誌は処分したりおいて行ったりすると思う。
私はそれができない。できずにいた。
学生時代に輝かしい思い出はあまりないけれど、子ども時代を懐古して、あの頃の自分を捨てられずにいた。
見方を変えれば、過去に未練ばかり残して、今の自分やこの先も生きていくであろう自分と向き合えずにいた。
実際、学生時代から「後ろを向きながら前方向に歩いている気がする」とよく感じていた。
過去に戻ることはできないので未来に歩いてはいるが、体と視線は過去を向いている。
そう思うと、人生につまづいたり、自分の力で前に進むのが怖いのもなんだか無理のない話に思える。
前を見れていないどころか、今の自分も見れていない。
題名にした「ずっと子どものままではいられない」というのは、
どんなに子ども時代に未練があって還りたいと思っても、もう絶対に戻ることはできないという意味もあるけど、
今日、洋服や本の整理をして感じたのは、「子どもの頃好きだったものや興味のあったことの中には、今の自分は興味を失っているもの、今の自分には必要ないものもある」ということ。
望む望まざるに関わらず、自分はもう子どもではないし、ずっと子どものままの心、頭ではない。
子どもの頃には興味のなかったことに興味を持ったり、子どもの頃知らなかったことや存在しなかったものに没頭したりだってする。
スキーマ療法のワークを進めてみて、自分は過去にコンプレックスがあるな、満たされることのなかった欲求があるなと改めて感じた。子どもの頃のあの状況に戻りたいわけではないけれど、子どものままでいたかった。大人に守られる存在で居続けたいという欲求がある。
昔好きだったものや使っていたものなど懐かしさを覚えるものを求めたり、昔やりたかったけれどできなかったことに執着を持っているのは、そういう欲求が表出しているのかもしれない。
だからこそ今回、その昔の自分が執着しているものをあえて手放すことにした。
昔の自分が抱きしめているものを取り上げるような真似をするつもりはないので、あくまで緩やかな断捨離という感じだが。
特に本。「いつかやりたいこと」に関する本は、その目途がない限りは処分対象にした。
もし本当にやりたいときは、必要に応じて買い戻せばいい。
机の本棚には、「いつかやりたい」ではなく「1~2年以内にやるつもり」のことに関する本だけが残った。
さらに本棚に大まかな分類ラベルを貼って、自分が今向いている方向を可視化してみた。
処分予定の本に対しては、できればやりたかった気持ち、やらないといけなかったのにという気持ち、それができる自分でありたかったという気持ち、捨てたくない気持ちなどいろいろな想いを感じる。しかしこの想いは、今も心の中にいる昔の自分が感じている気持ちだなとも思う。
今の自分にだけフォーカスすると「やらないことを決めた」という意味でもあり、いつかやりたいことはすべていつかはやらねばならないという重圧から解放された。本の重さの分だけ肩の荷も下りた。
こうした気持ちの変化はスキーマ療法の効果なのだろうか、環境の変化によるものだろうか。
最近はこういう、自分が少し変わったかもと感じることが多い。
実際変わった部分もあるけど、一番大きいのは、自分の心の中の変化に気づいてあげられるようなったんだろうなと思う。
部屋の掃除をして心はすっきりしたし、頭も少しすっきりしたし、天板の化粧板が浮いてきた机を次引っ越すときには買い換えたいなとか、これはこういう風に仕舞いたいなとか、そういう風に感じる心の状態に心地よさを感じた。
丸一日かかってしまって休日の過ごし方としてはちょっと消化不良な感じだけど、いい変化を感じたいい一日だったなって思う。