スイミング行ってきたよ。
まだ数回目だけど、やっぱり毎回少しずつ違う視点での指導になるのね。ありがたい。
そのおかげか、前回より少しクロールが上手になった気がする\\\\٩( ‘ω’ )و ////
あとあと、学生の時も息継ぎできてたつもりが、なんか苦しいな…と思って。
先生の指導とはまた別に、自分でも「息継ぎ意識してみよう」って思いながら泳いだ。
指導時間中は、今の自分がどうなってるかとか、どの辺がよくなさそうかあたりつけて
先生の話聞きつつこうかな?こうかな?って試行錯誤してた。
指導後は、フリーで泳げる時に泳いでみて、なんかすぐ疲れるな、あっぷあっぷしてるな
と思ったから、極力、楽に泳いで、息継ぎだけを頑張ってみよう。と思ってやってみた。
そしたら、今までより息がちゃんと吸える!水が入らないかもというときがあって。
まだ成功率が低いんだけど、こうかも!って感覚があった。
それが楽しかったしすごくうれしかった。
あ、ちょっとできるようになってる!とか、これならできそう!とか。
勉強でもスポーツでも同じだね。
最近続けてるフリースタイルお絵描きも、
うまくいかないな〜へたっぴだわ〜と思うことはあるのだけど、
思ってもいいんだなって。それを重く受け止めて自分はダメだと思う必要もなくて。
今まで結構、下手くそって言うこと自体を自分でNG出してた気がする。
下手な事実、でも下手と口に出すと言い訳になる、だから下手でも何も言い訳しないで載せる。
でも内心下手くそだ、周りに下手くそだと思われている、と思って苦しんでいる。
そういう気持ちの土台があるところに
「下手が悪いことではないのだから、自分では自分に下手って言わない。」なんて誓っても、
なんだか休まるところがないね。思ってるのに言っちゃダメってことが増えてるね。
今日泳いでいて、
「うまく(息継ぎ)できない…」「もっと楽に、長く泳ぎたい」「もっと速く泳ぎたい」
そういう気持ちがあったと思う。
どれもそのままでいいと思う。泳ぐのが下手だ。とあえて強調しなくてもいいし、
でも下手だと思ったら下手だな〜でいいいし、もっとこうしたいああしたい、
そういう風に感じるのは自然なこと。全部自然な心の動きだと思う。
よく、子どものしつけとかで結果じゃなくプロセスを褒めるといいっていうじゃない。
よくできたねじゃなくよく頑張ったねみたいな。
それを思い出した。
泳げる泳げない、うまいうまくないの白黒じゃなくて、
昨日できなかったことが、ちょっとできるようになったとか、
今日できなかったことがあったから、こうやってみたとか、
やってみた結果が出ても出てなくても、そのプロセスに自分が達成感を覚えられたら
楽しいとかもっと頑張ろうって思えるような気がした。
絵を描いていても、絵は昔から自分にとって大事だったのもあって
どうしても理想が高く厳しい目で見てしまう傾向があると思うけれど、
やっぱり、「筆で描くんじゃなくて線を引くような感じで動かしてみよう」とか
「今日は水の代わりにこっちの白を多めにしてみよう」とか
「背景の色で光をかいてみたら少しなじんだ!」とか
そういうプロセスを自分がちゃんと肯定してあげられるようになってきたかもしれない。
今までは、長い間絵が好きだったはずなのに下手くそで、練習もしてない自分に自己嫌悪もあったし、
うまくなるために美大予備校の人がやるトレーニングを真似したり同じくらいの量を描こうとしたり
でもそんなストイックになれずまた自己嫌悪に陥ったりしていた。
自分の絵を見るのもつらくて、絵を描くのが苦しかったし、なんで絵が好きなのか、本当に絵が好きなのかもわからなかった。
小さい頃たまたま人よりできたから、大人になってからも縋り付いているだけなのかなって思うようになった。
でもあるとき、(何回か前の記事にも描いたけど)やっぱり私は絵が好きだったし今も絵が好きなんだなと思った。得意不得意じゃないんだと。
今まで辛かったのは、結果だけを評価し評価されると思っていたからなんじゃないかな。
例えば美大生が書くようなクオリティのものを書けないのなら自分は絵が下手だと。
「美大受験に受かるくらいの力(デッサン力・平面構成など)」が上手い下手の判断のようになっていたと思う。
それと同時に、実際ほんとうに美大出たりそうでなくても絵の仕事をしているしてる人はそれとは別に自分の表現したいものも持っていたりして、
結局同じことをしようとしても同じにはなれないと心のどこかでわかってもいた。
それも出所を辿れば先日書いたように「否定されたくない」って気持ちだったのかな。
大人になってから、何かを学ぶとまず資格試験を受けるようになった。
正解と不正解、合格と不合格、それがはっきりと決まっているものは気が楽だった。
思えば学生時代、優等生になったのは、先生が気にかけてくれるからというのもあったけど
「間違わない」ことを自分が重視していたのも、もしかしたらあるかもしれない。
10代後半から、「真面目」と言われるようになり、職場でも理論派みたいに言われる。
どっちかといえば真面目の分類だとは思うからいいけど理論派はすっごく違和感があるしすごく嫌だ。
特定の分野に知識があるからそう見えるだけだと思う。
職場で相対的に見れば学歴があるほうになるので、そもそも読書や勉強に対する嫌悪感が少ないし、難しい言葉使ってる、お高くとまってるみたいにみられてるのもあるかも。(これに関しては、そちらのコンプレックスの問題では?と思う。わずかに思い当たる人がいる)
あと仕事だと特に、自分の考えは言っても感情を言わないからだと思う。
なんだろうね。理論派は決っっして悪いことではないし言われる相手によってはむしろ聡明を示す褒め言葉だと思えるのだがあの環境で理論派だよねと言うことは
感情やアイデアよりも理論を重んじる頭の硬いタイプだと、そうラベリングされることだと思っていて
「私にだって感情はあるが?」と反発したくなるし、
誰か、またはみんなが少しずつやっていれば自分はここまでやらないでいい思考作業を、誰もやらないからやっているだけだという不満もあり、理論派だと言ってくる相手を軽蔑することもある。
自分の軸はかなり感情にあると思うし、人に対しても理詰めすることはあんまりない。
何か説明するにも、相手に合わせて相手がなるべく原理などを軸に話した方がよさそうか、直感的にわかればいいかとかそういうのを考えながら、一人一人をみている方だと思う。
理論的ではない。理論的なところを持っていても、それが自分の本質を表す言葉ではない。
人から見えている自分も踏まえて、自分で自分のことを言い表すなら「理性的」だと思う。
なんだかヘイトが募っていたせいで話がずれたが、
絵も、結果で評価しなくなってきたから楽しさを思い出してきたのかなって思う。
うまくいかないこと、不出来や間違いをタブーとしなくなったから。
カウンセリングの先生から、「自分に許可出しをする」ってことを何度か言われたけど、
これも一つの許可だしだな。それと同時に、スキーマ療法ワークで
自分の気持ちの動きを観察するようになって、自分が自分の話を聞いてあげられるようになってきて、
そしたら今まで塞ぎ込んでいじけて下を向いていた自分の感情が、「今日はこんなことしたよ」「これがうまくできないのがくやしいよ」「こうしたらうまくいって楽しかったよ」「ここを頑張ったんだよ」って素直に、口数も多く話してくれるようになった。
上手い下手の評価が、あまり重要ではなくなった。
自分が否定しないということを、自分の心も受け入れてきたから。
大事な気持ちが否定されないのなら、絶対的な評価を、正解を追わなくてもいいから。
1番じゃなくても、ちゃんとみてもらえるってわかるから。