安心感のゆくえ、不快感の渦

最近読んでいる本、以前のブログにも描いた『自分のために料理を作る』(山口祐加・星野概念)という本。

本の中に出てくる人たちの話が、自分と同じではないんだけれど、なにか、わかる感情な気がする、というところから自分の過去に思いを馳せる。
この本はすごくいい本だなぁと読みながら何回も思っている。

今日は、土門さんの回で出てくる「おいしさの九割は安心感でできている」というところだったり、土門さんが母親の料理に安心感を持てていなかったのかも、という体験から、自分のこどものころのことを食事を通して想起して、いろいろ感じたり考えたりしていた。

私の子供の頃。安心感。
そういうワードで思い浮かぶのは、兄がキレて、いや、キレてというとなんだか違う気がする。
怒るとかと違う、逆上、なんだかすごく理不尽なスイッチが入った時のこと。
茶碗をガチャンとテーブルに逆さに叩きつけたことがあった。
ふざけてとかじゃなく、大きな声や音を立てたり、何か一般的に望ましくないことを当時彼は日常的におこなっていて、それが反抗ではあるのだろうが反抗期だからとかいうのとはまた違う何かだった。
いちいち大きなリアクションは取らなくなっていたが、今こうして思い浮かべるほどなんだか自分にはショックな画だった。

なんだろうか、うまく言えないな。
ああまただ、と何も感じないように心に蓋をするような気持ちもあったし、
食べ物をそうして粗末に扱うことに、すごく嫌な感覚もあった。
食事の時間。あの頃の食事の時間、自分にとって安心感なんてあったのかな。

そして、食べ物についていえば彼はとても偏食で母の料理を食べないとか文句を言うとかも度々あったと思う。あれが嫌だだのこれがまずいだの、食べると言って残したり、後で食べると言って食べなかったり、そして調味料もいちいち大量に使ってはそんなに出さなければいいのにという感じに残っていた。
それがすごく嫌だった。むかついた、というのもあるし、すごくうけいれがたかった。食べ物が無駄になることへの嫌悪感、母が作った料理を無碍にする、特に好き嫌い以上に粗末な扱いをする態度。そういうのもひとつひとつが私にとって不快感だった。

そういったことを思い出しながら涙が出た。
さらに言えば母が離婚の準備をしていた頃、置いてあるお金でコンビニご飯を買う生活だったことや、
母が彼氏を作るようになってからは、夜中に家で一人、パンを泣きながら食べていたことも思い出した。

家族揃ってご飯を食べたこと。それはある。
でも、そもそも食事が自分にとって安心できる時間だったのかというと、そうとは言えなかったなぁと思う。
一度警戒をし始めた心を、警戒を解くのは、意識でどうにかなるものではなかった。

先にあげた本がすごくいいと思うのは、料理に対しての気持ちが、自分にとって他の部分にも通じるからだ。
料理以外でも。そもそも安心感というものが、私にあったのか?と、考えてみると、
安心感はなかったと思う。10代から20代の間、ずっと訳のわからない不安を感じていたと思う。

家では、何が兄の理不尽な地雷を刺激するのかわからずいつも気を張っていたし、それが本当に理不尽だったから、避けるとか無理で、無力でもあった。
母に対する要望も、聞き入れてもらえなかったり、つらいときに、おまえはネガティブだからいけないんだと、ネガティブに考える私の気持ちも、そう思う原因にも思いを馳せてはくれず、大人になる過程でも、なんでそんな就職先を選んだんだとか、なんでそんなのを選んだんだとか、料理を作ればうまくいかなかった部分を指摘された。
ああ、料理、そういえば私にとって、中学生頃から、母の日は家事を全部やるのが恒例になった。
それはある意味、家事が母にとっては疲れることでしかなかったわけで、私たちに作る料理も、「あなたたちに料理を作れるのが幸せ」(と言って欲しいわけではないが例えとして)的な価値観は微塵もなく、全部、疲れる、手間、面倒ごと、ということを暗に発していたからかもしれない。シンプルに大変だったからだろうけど、それでも手伝うのは女の私だけ、とか、そういうのが、あった。

ひとつひとつはちいさいかもしれない。でもそういうのが、無数にあった。

どれが何に影響したとかそう言うものでもないのだと思う。ただ、徐々に徐々に、
私は母から、人から、否定されない「正解」を求めるようになった気がする。
実際、母が「なんでそんな会社・職に就職したの!?」と何度も言われて、もっといいところに、と転職先がすこし名の知れたところだったとき、このくらいならいいだろうと思っていたがそれも否定された。
フリーター時代も、▲▲屋で働きたいって言ってたのになんで〇〇屋なんだ、と言われた。
そもそも、その▲▲屋、というのも、母にとって望ましかったに過ぎない。私はその〇〇の方も好きなのだ。それに好きだと言ったのに、それは何度も無視され続けた。

進路もあっちの道を選んでたらとか、あれになって欲しかったとか、なればよかったとか言われた。
そして昨年、私はその専門学校に通った。完全に、無意識だった。自分がそれがいいと思って進んだが、確かに、「きっとこれを選べば母に認めてもらえる」と言う気持ちが、あった。
結果的に、自分の判断で、その道は断念した。私はその分野が好きだが、それを仕事にするのは、完全に自分のやりたいことと違うと気づいたから。

母のせいだと言いたいわけではない。ただ、ずっと肯定して欲しかったんだろうなと。そう感じる。
とりわけ嫌だったこと、私の描く絵を、いい悪いを、評価すること…

とにかく、何が望ましくないのか、何が否定されるのか、何が望ましくて肯定されるのか、それを無意識に感じ取るようになっていったと思う。
思えば、私が学校の先生と生徒だったりそういう役割を持って人と接することにある種安心感を覚えていたのは、模範があるからだったのかもしれない。この関係における正解、というのが、わかりやすかった。それが安心感に繋がった。

なんだかうまく書くことはできないが、兄や母のことを思い出して、自分の満たされない気持ちや、常に抱えていた不安だとか、日頃感じていた不快感があったのだと気づいた。
カウンセラーの先生に、聞いてもらって、「悲しさだったり、怒りや憎しみっていうのが実はある」ってことを、そのままに肯定してもらったけれど、こうしてみると、やっぱり私はずっと不快だったんだなと思う。どれだけ今いい顔されてたって、私はずっとそういう不快を抱えて、それを思い出して付き合ってるんだなと。

そういうふうに、自分の感情を封じ込めて、人の顔色を伺って生きていた。
スキーマ療法ワークを進めたり、あと最近フリースタイルお絵描きをしたり、本を読んで自分のために料理してみようとして自炊したり(今日カブのスープ作った)色々と自分の気持ちに向き合う中で、
何がきっかけか忘れたけど、絵を描くのって、
幼稚園の時同じ組の子とピアノの影でお金の絵描いて遊んだ時も(←おい)
従兄弟とリレー漫画描いた時も、初めて横から見た花を描いた時も、
ひだまりの民のさくらちゃん描いたときも、
絵しりとりした時も、絵手紙交換した時も、
自分が感じる気持ちを楽しんだり、形にしたり、描く過程での気づきを面白がったり、
人と、絵を介して共感して情緒の交流を楽しんでいた。

バンプの、才悩人応援歌で、得意なことがあったこと〜ってとこから続く歌詞あるけど、
あれ聴いたりして、自分替えを好きなのは、ただ当時人より得意だったからなのかなとか、思っていたんだけど、そしてなんか悲しくなっていたんだけど、
自分が絵が上手いから絵が好きだとか、自分の絵を褒められたから絵が好きだったことなんて、一度もなかったなって気づいた。そもそも、人より絵が得意だったかもわからん。幼少期、絵が好きで描く回数が多かっただけなのでは。自分にとって才能があるかどうかが、関係なかったんだなぁ。

その、料理の本も、レシピ通りに作らなくては、的な呪縛というかそう言う話もでてくるんだけど、
本当にそんな感じで、絵が好きなら絵がうまくないといけなくて、絵が上手くなるにはデッサンをしないといけないとか毎日描かないといけないとか、自分にとっての呪縛、ものすごくあったと思う。
絵の具は濁らせちゃいけない、形はきれいにとらないといけない、上手く描かないといけない、うまくないといけない、でも自分はそんなにうまくない、そんなにシビアに見たままに書くのはつらい。楽しくない。そういう、がんじがらめで苦しかった。

私は幸か不幸か、美大受験生ではないし、今やそういう競争意識から、年齢的に自然に外れている。同年代と並ぼうとしたって無理、若い人と並ぼうとしたって無謀(というか、やる意思がない)
正解、正解?

美大受験とか、写実的な絵が描きたいとか、あと人から認められたいとか、そういう動機だったら自分がやりたいやりたくない関係なくデッサンだったりやるべきこと、というのが存在すると思うけれど、私は違う。ただのなんか絵を描くのが好きな一般人。それでいい。それが私。

デッサンもやりたい時にやる、上手くなりたい時は描く、でも多分、別に写実的じゃなくてもいい。自分が満足する絵が描ければいい。

長くなった。とにかく色々考えた。でも多分、今自分が歩き出している道が、今までで、一番、私にとって、正しい道だと思う。「正解」じゃない、私が導き出した解、私がこれでいいと自信を持って言える、解。