題「想像におけるピーマンとその影」

どーん。

タイトルの通り。

ほんでもってピーマンはこう。ピーマンの色がやばすぎるのは冷蔵庫奥に眠っていた古ピーマンだから。食べ物使い切らず捨てるのほんとやめたい。

※↓これはフリー素材

記憶のわたやばすぎる。描きながらなんかキモイなとは思ってたが書き進めるしかなかった。なんとなく内側が薄い色だったり黄色っぽいのはなんとなーく覚えてた。

影も正直わからないから、あってほしいところに描いた。ピーマンが浮いてようが重なってようが関係ないのだ。

さてさて、ここ最近読んでいる本があります。

『自分のために料理を作る』山口祐加さんという方の本。これはKindleで普通に買いました。unlimitedじゃないやつ。

まだ途中だが、自分のために料理を作るのはなぜ難しいんだろうね?っていう感じで自炊、料理の視点から自分のケアを考えてくみたいな感じの本です。説明下手で著者に申し訳ない。

なにがきっかけだったかな、たまたま見かけて気になって読んで、そしたらなんだか、これって料理じゃなくても言えることかも。と思うことがあって。

料理っていうのはこういう材料を使ってこういう名前の料理を作る、っていうのをレシピなしで作れるようになる…的な感じの、材料も手順も明確にあって、かつ和風中華イタリアンくらいならなんか一通り作れるみたいなのを料理上手って言ったりするんだと思ってた。し、毎日献立も変えてうまくやることだと。自炊ってのは一汁三菜で栄養たっぷりのご飯を自分で作ることだと。私は無意識にそう思ってたわけです。

でもそうじゃないんじゃない?っていうのがこの本には書かれている。トマトに塩振ってかじったってそれも料理だと。

私はお絵描きが好きなんだけど、ほんとーにいつからだろうってくらい前から、描けなくなった。

中学からかな。美術の提出物を出せなくなった。

家が大変だったからってのも理由の一つではあるかもしれない。安心できる場所がなかった、自分の感情を出せないのが一因ではあると思う。

でもそれとは別として、上手く書かないといけないってふうになってた。それは上手くないと自分に価値がないって意味でもあれば、上手くなければ認めてもらえないとか絵が好きっていう資格がなくて恥ずかしいとかそういうのもあるし、本当に自分の理解を超えて苦しかった。

それがこの料理の本に書かれてる、料理のハードルが高かったり、自分のために料理をする難しさに通じるところがあるかもって感じた。

小さい頃、夏休みには絵日記を書いたし、学校でもよく思い出の絵をかかされた。記憶の中の家族や、見かけた生き物、ペットや友達と遊んだ風景、海や山、バーベキュー、習い事、いろいろ。

写真なんか見なかった。人が人の形してたかとかも別に気にしなかった。

友達とお絵描きして遊ぶ時も、手が描けないからと体の後ろに手を回してる絵を何度も描いた。これはあるあるだと思う。

一体どうして、それができなくなったんだろう?

記憶で書くことはタブー、写実的であるべき。本物はそんな形をしていない、そんな色はしていない。子供みたいな絵はダメ、頭の中でシンボル化してるもの、例えば太陽は赤、そんなふうに描くのは思い込みだと。

デッサンが上手くなければ絵は下手だとか、私にはそういう思い込みがあった。なぜかはわからない。自分ができて人を馬鹿にするわけではなく、単純に自分がそう思われるのが怖くて何も描けなかった。描いても下手な絵に着地するのならば描ききれなかった。

ピーマンを描くにしても、正解の色や形がある。描き方に正解がある。そう思っていた。そしてそれに苦しんでいた。だけど、本来絵なんて、フリースタイルでやっていいはずだ。描き方なんて、あるようでないのだ。ペンなり筆なりクレヨンなりを持ってサッと動かせばある意味絵は描ける。線を引いても塗っても押してもいい。決まりがない。正解なんてない。

まぁとにかくそういう自分の思い込みに対しての抗う作業をした。想像だけで絵を描くこと。

絵の勉強をするなら、見て描くのは目を養うのも技術を養うのにも大事だと思う。けど私にとって今必要なのは、正解を選び続けることや正解だけ選ぶことじゃない。自分の中の気持ちを芽吹かせ育てること、自分の中にあるものを外に出せるようになること、そうやって生きていけるようになること。

今日ピーマン描いて、私の中のピーマンってこれなんだなーって確認して、ちょっとわたキモすぎって笑って、次にピーマンを見かけたら、あ、こここうなってるんだなーとか考えたりする。

思ったより黄色いんだなーとか、影ってこういうふうにつくんだなーとか、よく見えるようになる。

フリースタイルお絵描き、ちょくちょくやろうと思ってる。